富籤についての最新情報、関連する画像や動画を紹介。(出典:Wikipedia)
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富籤・富くじ(とみくじ)は、富突きともいい普請の為の資金収集の方法であり、宝くじの起源といわれるくじ引の一種であり、賭博でもある。現在でも富会としての富くじを行っている寺社や商店街の福引として残っている。
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概要
富札を売り出し、木札を錐で突いて当たりを決め、当たった者に褒美金すなわち当額を給する。富札の売上額から褒美金と興業入費とを差し引いた残高が興業主の収入となる仕組みである。
享保時代以後、富籤興行を許されたのは主に社寺で、収入の他にも当金額の多い者から冥加(みょうが)として若干を奉納させた。
寺社普請のための富くじが大勢だが、戦時中は勝札と言う名目で、戦時資金を募った。また現在でも宝くじとして公共の普請のための資金調達にもなっている。
方法
- 抽せん方法
- 始めに、大きな箱に、札の数と同数の、番号を記入した木札を入れる。続いて箱を回転し、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決める。そして当せんした富札の所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する。
- 配当方法
- 当せんにはいくつか方法があり、次第に複雑化していった。
- 当には、本当(ほんあたり)が1から100まである。つまり100たび錐で札を突くのであり、たとえば第1番に突き刺したのが300両、以下5回目ごとに10両、10回目ごとに20両、50回目は200両、100回目(突留(つきとめ))には1000両、という様に褒美金がもらえる。
- これらの21回数を節(ふし)という。節を除いた残り(平(ひら)という)に、何回目ということをあらかじめ定め、間々(あいあい)といって、少額金を与えることがあった。節の番号数の前後の番号にいくばくかの金額を与えたが、これを両袖といった。袖といって、両袖のかたわらの番号に、少額のものをくれることがあった。
- 札数が大多数に上る時は、番号には松竹梅、春夏秋冬、花鳥風月、または一富士、二鷹、三茄子、五節句、七福神、十二支という様に大分類を行い、そのそれぞれに番号を付け、たとえば松の2353番が当せんした時は竹、梅の同番号の札にもいくぶんかの金額を与えることがあった。これを印違合番(しるしちがいあいばん)といった。
- この場合、両袖が付けてあると、各印ごとに300枚ずつ金額の多少にかかわらず当たるわけで、本当の他は花といった。元返(もとがえし)といって、札代だけを返すものもあった。たとえば、頭合番999人に渡すとあれば、当たった3300という番号だけを除き、3000代の番号どれにも元金だけを返してくれる。突留の頭合番に渡すという方法もあった。
- 当せんした者は褒美金全部を入手したのではなく、突留1000両を得たものはその100両を修理料として興行主に贈り、100両を札屋に礼として与え、その他諸費と称して4、50両取られたから、実際に得るところはおよそ700余両であった。これは平(ひら)の当(あたり)まで同じである。
- 販売・購入方法
- 興行主において数千または数万のくじ札(富札)を作り、それに番号を付ける。日を定めて抽せんされる。
- 仮に興行主から富札店(札屋)が富札1枚を銀12匁で買い入れたとすると、札屋はこれに手数料を取って13、14匁で売り出す。売り出す時は当局に申告するため定価があったが、札屋から庶民に売るものは、その時の人気で上下した。
- 1人で数枚を買うこともできたし、1枚を数人で買うこともできた。後者は割札といい、本札は取次人の手に留めて仮札をもらう。半割札を買った場合、褒美金はもちろん2分の1になる。4つに分けたものを4人割といった。
歴史
起源
起源はすでに寛永ころ京都でおこなわれていたらしく、元禄5年5月の町触にはその禁止がある(『正宝事録』八には、「元禄五壬申年(改行)覚(改行)一 比日町中にてとみつき講と名付 或ハ百人講と申 大勢人集をいたし 博奕がましき儀仕由相聞 不届に候 向後左様之儀一切仕間敷候 若相背博奕の似寄たる儀仕者於レ有レ之ハ 本人ハ不レ及レ申 名主家主迄曲事ニ可二申付一者也(改行)申五月(改行)右は五月十日御触 町中連判」とある。)から当時流行していたらしい[要出典]。流行の頂点は文化、文政ころであった。
最も古い記述としては鎌倉時代の夫木集にある藤原兼隆の歌に、現在の大阪府箕面市にある瀧安寺 の箕面富に関する記述があり、これが起源ではないかとされている[要出典]。そこからすると約950年前にはその実があったと言える。当初は金銭の当たる籤ではなく、弁財天の御守「本尊弁財天御守」が当たるものだったようである。
富籤は頼母子(無尽)、とくに取退無尽(とりのきむじん)が変じたもので、頼母子は出資者数が少なく獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの理由があった。そのため、債権債務関係が1回限りで、配分額の多い富籤という方法が案出された。
富会といわれ新年の縁起物としての行事であった。自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽せんしたのが始まりと言われる。当せん者はお守りが貰えただけであったが、次第に金銭が副賞となり賭博としての資金収集の手段となった。
幕府の対応
この方法が時勢にあったのか大いに流行し、幕府はしばしば禁令を発した。1692年5月に出された江戸の町触には、富籤を禁止しする旨の条文があったという。しかし1730年(享保15年)、幕府公認の下、仁和寺門跡の宅館修復の名目による富突を護国寺で3年間行った以降、富籤は主に寺社の修理費用に充てるために興行された。このため、許可は寺社奉行に出願することとなり、抽籤の際には与力が立ち会った。谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神は江戸の三富と呼ばれるほど盛んであったという。[1]。寛政の改革期は、松平定信によって江戸・京都・大阪の3箇所に限られ、あるいは毎月興行の分を1年3回とするなど抑制されたが、文政、天保年間に入ると再び活発化し、手広く興行を許され、幕府は9年、三府以外にもこれを許可し、1年4回の興行とし、口数を増やし、1ヶ月15口、総口数45口までは許可する方針をとった。これは、1842年(天保13年)3月8日に水野忠邦が突富興行を一切差止するまで続いた。
関西地方の特色
京阪では当富(あたりとみ)の番号を大幟にしるして、札屋の軒前に立てかけるものもあり、たとえ当札のない店でもこれを模造して立てた。 富籤興行の当日、「御はなし御はなし」と声高く叫びながら市中を駆け回り、番号を書いた紙片を売り歩く者もあったが、これは当の番号に対して賭をするもので、これを第付(だいづけ)というと『守貞漫稿』にはある。 町触にある蔭富(かげとみ)は、これをさす。
興行元
江戸では、享保期の江戸の三富に加え、文政以降になると興行元は数十箇所へ増加した。主な寺社として浅草八幡宮、浅草観音、浅草三社、浅草念仏堂、浅草大神宮、浅草焔魔堂、本所回向院、深川霊岸寺、芝明神、愛宕山、西久保八幡宮、白山権現、根津権現、平川天神などがある[2]。突富興行御免を受けた寺社は毎月または1年数回興行したので、好都合な財源であった。
法律と賭博
現代では刑法第187条の「富くじ」にみられるように法律用語として残っている。賭博や株式、宝くじや景品法などに係わる法律の概念や成り立ちにおいて富くじが根幹にある。
落語
富籤が主題の落語
外部リンク
脚注
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