柳生宗矩についての最新情報、関連する画像や動画を紹介。(出典:Wikipedia)

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凡例
柳生宗矩
芳徳寺蔵・木像
時代安土桃山時代から江戸時代前期
生誕元亀2年(1571年
死没正保3年3月26日1646年5月11日
別名新左衛門、又右衛門(通称)
戒名芳徳院殿故但州剌吏荘雲宗巌居士。
西江院殿前但州太守大通宗活大居士
官位従五位下、従四位下、但馬
幕府江戸幕府将軍家剣術指南役・大目付
主君徳川家康秀忠家光
大和国柳生藩
氏族柳生氏
父母父:柳生宗厳(石舟斎)、母:奥原助豊の娘・奥原鍋(春桃御前)
兄弟柳生厳勝、久斎、徳斎、宗章宗矩
正室:松下之綱の娘・おりん
側室:おふじ、おゆり
4男2女:三厳(長男)、友矩(次男)、
宗冬(三男)、列堂義仙(四男)、
娘(武藤安信室)ほか
 Template‐ノート:基礎情報 武士 

柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は江戸時代初期の武将大名剣術家である。徳川将軍家の剣術師範。大和国柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した剣豪政治家

目次

生涯

誕生〜徳川家仕官
大和国柳生の領主で、永禄8年(1565年)に上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)の五男として生まれる。母は奥原助豊の娘(奥原鍋、または春桃御前とも)である。兄に柳生厳勝、柳生宗章らがいる。少年時代に太閤検地の際の隠田の露見によって父が失領していたが、文禄3年(1594年)、徳川家康に招かれて無刀取りを披露した父・石舟斎の推挙により、家康に仕えることとなった。
柳生家再興・将軍家兵法指南役就任〜大坂の陣
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の命を受け、筒井家や大和国の豪族と協力し、西軍の後方牽制によって功をたて、父の旧領の大和国柳生庄2000石を取り戻すことに成功する。更に慶長6年(1601年)にのちの二代将軍・徳川秀忠の剣術師範役となり1000石加増、合わせて3000石の大身旗本となる。その後、元和7年(1621年)には後の三代将軍・徳川家光(当時は竹千代)の剣術師範としても任ぜられた。慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍秀忠のもとで従軍、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀で瞬殺したという[1]。なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
坂崎事件
大坂の役の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件(坂崎事件)の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に友人を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋(地楡:吾亦紅=われもこう)に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて(譲り受け?)使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子平四郎と二人の家臣を引き取っている。
家光の下での躍進〜大名へ
その後、将軍へと就任した家光の信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)に従五位下に叙位、但馬守に任官する。更に寛永9年(1632年)には3000石を加増された後、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)の4000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。晩年さらに加増を受けて所領は1万2500石に達した。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である。[2]
芳徳禅寺境内、柳生一族の墓所にある宗矩の墓
芳徳禅寺境内、柳生一族の墓所にある宗矩の墓
晩年
正保3年(1646年)に没し、自身が父の菩提を弔うために友人の沢庵宗彭を招いて柳生に開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺に葬られた。享年76。なお、そのほかに、練馬区桜台の圓満山廣徳寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。また死に際し、その死を惜しんだ家光より従四位下を贈位された。
子には隻眼の剣士として有名な長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4子が知られる。
  1. ^ 渡辺一郎「兵法家伝書」では出典を「徳川実紀」とするが記載がない。永岡慶之助「柳生の剣と武蔵の剣」では「安藤治右衛門家書」に出典があるとする
  2. ^ ただし、元々将軍や大名である人物が剣豪になった例(足利義輝北畠具教松浦清(静山)など)や、陪臣のため大名ではないが、宗矩以上の石高(1万3000石)を得ている富田重政(名人越後)などの例もある。

評価

  • 剣術面においては、江戸初期の代表的剣士の一人として有名。将軍家指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「兵法の鳳(おおとり)」「剣術無双」と賞賛されている。父・宗厳(石舟斎)が創始した柳生新陰流を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。これにより、柳生新陰流は当時「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った(江戸時代前半、多くの藩に宗矩の門弟が指南役として仕官している)。また、「活人剣」を提唱し、戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術に、「活人剣」「剣禅一致」などの概念を組み込む事で、人間としての高みを目指す武道に昇華した。この宗矩の思想は、柳生家の伝書である「兵法家伝書」として著され、後に「葉隠」や新渡戸稲造の「武士道」などにも影響を与えることになる。この他、勝海舟が絶賛していることでも有名である。
  • 幕臣としては、有能な官吏/為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。伊達家伊達政宗)、鍋島家鍋島勝茂鍋島元茂)、細川家細川忠興細川忠利)、毛利家毛利秀就)などと親交があった。幕府初代惣目付として勤めていた際、細川忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年)の家光上洛時の道中奉行、寛永13年(1636年)の江戸城普請の際の普請奉行などもこなしている。
  • 将軍家光との関係においては、若い頃よりの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱春日局と共に、将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。本来は一介の剣術指南役ではあったが、剣を通じて禅や政治を説いたことで、「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価されている。家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受け、最後まで信頼され続けた。
  • 父親としては、子息四人のうち、長男三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、三男宗冬は成人まで剣の修行を厭う等、子の教育には失敗している面が見受けられ、これは沢庵よりも忠告を受けている。ただし、三厳はその著作にて父・宗矩を賞賛しており、創作によくある「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立についてはこれは虚構であると言える。

柳生宗矩の言葉

  • 兵法家伝書
    • 「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」
    • 「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」
    • 「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
    • 「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」
    • 「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」
    • 「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」
  • 葉隠
    • 「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」

逸話

武芸者/為政者の両方に於いて高名を為したため、宗矩の逸話には、史実上のものと、真偽が不明なものがそれぞれ多数存在する。

史実上の逸話

  • 紫衣事件により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海堀直寄と共にその赦免の為に奔走している。これに対し、沢庵は後に手紙にて「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて、其の時分はのがれぬ人達も、よそに見ており申し候」と記している(「沢庵和尚書簡集」)
  • 家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」と答え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけを作った(「徳川実紀」)[1]
  • 島原の乱の際、大将として遣わされた板倉重昌の敗死を予見し、派遣を撤回するよう家光に諌言した(藩翰譜)。
  • 亡くなる際、鍋島元茂に与える伝書(兵法家伝書)への花押を最後の力で印した。この時、宗矩は半ば意識が朦朧とし、元茂の家臣・村上伝右衛門の力を借りて印したため、花押は大きく乱れたという(乱れ花押)。なお、この村上伝右衛門は、葉隠の口述者山本常朝の伯父である(「兵法家伝書」小城藩(小城鍋島家)版)。
  • 宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(「徳川実紀」)。
  • 家光は宗矩の死後何かあると、「この問題は宗矩がいたらどうしただろう」と言ったという(「藩翰譜」)。
  • 甥(長兄・厳勝の次男)の兵庫助(柳生利厳)が家祖となる『尾張柳生家』とは、利厳の妹を外国人(柳生主馬)に嫁がせた件をきっかけに、不和になったという(「玉栄拾遺」)。
  • 乱舞や能を好み、大名家に押しかけて踊ったり、立ちくらみを起こすまで踊った事があったという(「不動智神妙録」)。
  • かなりの喫煙者であり、沢庵より癌になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている(「沢庵和尚書簡集」)。
  1. ^ なお、この逸話は新渡戸稲造の『武士道』において、武士と禅の関係についての話として引用されている

真偽が定かではない逸話

  • 家光より大和高取藩5万石への加増転封を問われた際、これを断り、友人の植村家政を推挙した。
  • 家光が宗矩の不意をついて一撃を加えようとした時、これに気づき、「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝し、家光の悪戯を防いだという。
  • 能の名人観世大夫の隙を見抜き、これに感づいた名人に感嘆の声を上げさせた。これを聞いた家光は「名人は名人を知るとはこのことか」と讃えた。
  • 乗馬の達人諏訪部文九郎と馬上試合を行い、先に馬を叩くことで相手の動きを止めて勝利した。家光はこれを「まさに名人の所作である」と讃えた。
  • 猿を飼っており、これを牢人と立ち合わせたという話がある。
  • 家光の命で虎の檻に入った際、気迫で虎の動きを封じた。
  • 葉隠」内の逸話に、常住死身の境地に達した者を一目で見抜き、即日印可を授けたというものがある。
  • 年老いた後にも、背後の小姓の殺気を察知するなど、老いてもなお衰えなかったという。
  • 喫煙を沢庵に咎められた際、「では煙を遠ざければよろしかろう」と言い、部屋の外まで出る特製の長いキセルを作って煙草を吸い、「これで煙を遠ざけ申した」と答えたという。
  • 嫡子・三厳(十兵衛)が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたためとも、鍛錬の為、飛ばした礫が誤って目に当たったためとも言われている。
  • 次男・友矩が家光との衆道関係によって大名取り立ての話が出た際、周囲の批判から柳生家を守る為に、友矩を死なせた(自害させたとも、暗殺させたともある)。
  • 三男・宗冬と仕合した際、「太刀が長ければ勝てるのに」などと言った不覚悟を咎め、戒めのため、気絶するほどの一撃を与えたことがあるという。
  • 柳生庄に戻った際、洗濯をしている娘に「その桶の中の波はいくつある」と戯れに尋ねたところ、「ではその馬の蹄の跡はいくつありますか?」と即答したため、これを気に入り、側室として迎えたという。この娘が後に末子六丸(後の列堂義仙)の母となったお藤(おふじ)とされる。なお、このことを歌った俗謡に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の嫁になる」というものがある。

他流派の伝承上における宗矩の逸話

宗矩の逸話のうち、真偽が不明なものの中には、他流派の伝承が出典となっているものも存在する。これらの逸話の中には、史実と相反するものもあり、注意が必要である。

  • 宮本武蔵の逸話の中には、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害した、というものがある。ただし、この逸話は武蔵の死後、100年以上後に書かれた武蔵の伝記『ニ天記』が初出であり、それ以前に書かれた武蔵の伝記には記載がないことから、後世の創作の可能性が高い。
  • 一刀流の逸話の中には、秀忠の指南役として宗矩と相役であった一刀流二世・小野忠明が、宗矩に勝った事で、指南役としての地位を手に入れたという逸話がある。ただし、史実においては忠明は宗矩より先(文禄2年(1593年))に仕官しているため、これは成立しない。
  • 同じく一刀流の逸話の中には、忠明、またはその後を継いだ小野忠常が(宗矩と違い)将軍相手にも手加減をしなかったことで不興を買ったために加増されず、宗矩に差がついたと記されている。ただし、史実においては、相役となって以降の忠明、及び忠常には特に旗本としての功績もなく、また忠明については同僚との諍いが元で閉門を受けたことなどから鑑みると、上がらないことに不思議はなく、多分に自己正当化の側面が強いと言える。[1]
  • 富田流の宗家富田重政と宗矩の立ち合いを家光が望んだ際、重政が「これは但馬守も承知の上か」と不審に思い、「本当によろしいか」と確認した後、直前で沙汰止みとなったという。
  • タイ捨流の流祖丸目長恵(丸目蔵人佐)が、新陰流の正統をかけて宗矩に直談判し、東国では柳生が、西国では丸目が天下一を名乗ることを認めさせたという逸話がある。ただし、その西国(九州)の大藩である熊本藩細川家佐賀藩鍋島家において当主自ら柳生新陰流に入門し、大いに隆盛したこと、及び、その両藩(特に丸目の住地である人吉藩に隣接する熊本藩)で上記逸話を証する史料が存在しないことなどから鑑みて、虚構の可能性が高い。[2]
  1. ^ なお、寛永10年(1633年)2月の家光による1000石以下の小姓番書院番の番士全員への一律200石加増により、忠常の代に小野家は800石になっているため、加増がないということも史実に反している
  2. ^ なお、上泉信綱より丸目宛に「西国の御指南は貴殿に任せおき候」と記された書状が存在し、そちらが元になってこの逸話が作られた可能性がある

著作

  • 『切合極意見之心持之事』
  • 『新陰流兵法心持』
    • 家光に与えられた伝書。なお、家光への伝書は、これを披露する老中酒井忠勝宛になっている。
  • 『外の物の事』
    • これも家光に与えられた伝書。「外の物」とは太刀以外の物の意であり、槍、長太刀、小脇差、馬術等の術に加え、日常での心がけなども記されている。
  • 兵法家伝書
    • 宗矩の代表的著作にして『五輪書』と並ぶ近代武道書の二大巨峰。『進履橋』『殺人刀』『活人剣(「無刀之巻」含む)』の3部構成となっており、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」[1]「剣禅一致」などを説いた宗矩の兵法思想の集大成の書。柳生家の家伝書となった他、鍋島勝茂鍋島元茂細川忠利にも与えられている。岩波文庫にて渡辺一郎校注で刊行されている。
  • 『玉成集』
  1. ^ 「無刀」については吉川英治の『宮本武蔵』、及び、それを原作とした漫画『バガボンド』の影響もあり、一種の悟りの境地、あるいは平和主義的な思想として捉えられる事もあるが、この伝書内で語られる「無刀」は、「わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」とある通り、”刀がない状態で危機に陥った際、如何に対処するべきか”という実用重視の護身術的なものである。ただし、宗矩の父・石舟斎は「兵法百首」において『無刀にて きはまるならば 兵法者 こしのかたなは むよう成けり』と歌っており、全く論拠のない創作とも言いがたい部分もある。

創作物上の扱い

史実において将軍家兵法指南役(公的な場における武芸の最高権威)にして、当時最大の剣術流派の宗家であるという立場、また、使番、惣目付などを歴任し、大名にまでなった将軍の側近としての立場、また個人としての家光や沢庵、その他諸大名との交流、十兵衛三厳を始めとする子供達とのやり取りや、尾張柳生家との不仲など、同時期の他の武芸者と比較し、様々な側面を持つことから、その人物像は作家/作品によって大きく異なる。

山岡荘八大河ドラマ春の坂道』のために原作(「柳生宗矩」)を書き下ろしている。また、同作者の他の著作『徳川家康』『伊達政宗』『徳川家光』にも登場し、これらの作品内における宗矩は、一貫して情誼に篤い剣聖であり、家光のよき師として描かれている。また、吉川英治の『宮本武蔵』においても、実直な理性家として描かれている。

しかし、小説では五味康祐荒山徹宮本昌孝朝松健の諸作、映画・ドラマ『柳生一族の陰謀』、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』などにおいては、幕府安泰のために陰謀・暗殺を遂行する闇の世界の人物として描かれている。また、その中でも、秀忠を悪役とする作品では、宗矩もその配下の悪役として描かれがちである。(小説では隆慶一郎の諸作や漫画『あずみ』、ゲーム『新 鬼武者 DAWN OF DREAMS』など)。また惣目付に就任していた影響などから、「裏柳生」と呼ばれる忍者武術暗殺集団の頭領とされることもある。

このように、歴史小説的視点から描かれた場合、『泰平の世のために尽力した文武両道の人格者』と評価されることが多いが、歴史伝奇小説的視点から描かれた場合、『目的のためならば手段を問わない冷酷非情な人物』とされることが多い。

同様に剣豪小説的な視点(津本陽戸部新十郎の諸作。また漫画『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』など)から描かれた場合、同時代の剣豪(宮本武蔵など)や同じ柳生一族(父・石舟斎、息子・十兵衛、甥・兵庫助利厳)と比較し、隔絶した地位を得た事から、剣ではなく、政治面で立身した『剣士として純粋ではない人物』[1]という捉え方をされ、この場合、比較的評価を下げた描かれ方をされる傾向がある。


いずれにせよ、善悪どちらの役柄であれ、当時の代表的剣士の一人という点ではぶれがなく、厳格で知勇兼備な傑物としての宗矩像は共通している。

  1. ^ ”剣を権に変えた””政を以って剣を歪めた”などとも揶揄される

柳生宗矩の登場する作品

小説

漫画

アニメ

映画

テレビ

舞台

ゲーム

参考文献

関連項目

外部リンク

ウィキクォート
ウィキクォート柳生宗矩に関する引用句集があります。
先代:
-
徳川将軍家剣術指南役
1636年 - 1646年
次代:
柳生宗冬

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