唐津市についての最新情報、関連する画像や動画を紹介。(出典:Wikipedia)

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唐津市
からつし
日本
地方九州地方
都道府県佐賀県
団体コード41202-3
面積487.47km²
総人口127,785
推計人口、2010年2月1日)
人口密度262人/km²
隣接自治体佐賀市伊万里市多久市
武雄市玄海町糸島市
壱岐市松浦市
市の木
市の花
唐津市役所
所在地〒847-8511佐賀県
唐津市西城内1番1号
外部リンク唐津市ポータルサイト

唐津市位置図(佐賀県)

― 市 / ― 町
特記事項:
唐津市旗
唐津市旗
テンプレート(Template‐ノート:日本の市ノート・解説・ウィキプロジェクト)

唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置し玄界灘に面する

目次

概要

東松浦郡唐津藩の城下町を前身とし、佐賀市に次ぐ人口規模を有する佐賀県第二の都市。唐津湾に注ぐ松浦川河口を中心に市街地が形成されている。唐津神社の秋季例大祭である唐津くんちや特別名勝の虹の松原、呼子朝市などで有名で、広大な面積に多数の観光資源を有する。県都のある佐賀都市圏とは歴史的・文化的観点から馴染みが薄く、比較的福岡都市圏との馴染みが強い。

2005年に周辺の東松浦郡呼子町鎮西町肥前町相知町厳木町浜玉町北波多村と合併(新設合併)して新たに唐津市となった。また、2006年に七山村を編入した。

経済圏である唐津都市圏は唐津市及び玄海町で約13万人強の人口を擁しており大部分を唐津市が占めるが、近隣の福岡都市圏佐賀都市圏方面に通勤・通学する市民も多い(旧浜玉町域は福岡都市圏の5%通勤通学圏、旧厳木町域は佐賀都市圏の10%通勤通学圏である)。

地理

地形

鏡山から見た虹の松原
鏡山から見た虹の松原

市域は唐津平野と、上場(うわば)と呼ばれる丘陵性の玄武岩台地からなり、東は背振山地、西は伊万里湾、南は杵島山地、北は玄界灘唐津湾)に面する。唐津湾には松浦潟(まつらがた)という別称もある。また北西部の海岸はリアス式で出入りに富み、その地理的特徴から東松浦半島周辺は古くから中国朝鮮半島方面の海上交通の要衝として栄え、半島北端部の名護屋には豊臣秀吉朝鮮出兵の際に拠点として築いた名護屋城がある。

初代唐津藩主・寺沢広高が防風防砂目的で唐津湾沿いの砂丘に植えたクロマツの林は虹の松原と呼ばれ、景勝地ならびに唐津の象徴として親しまれる。鏡山の展望台からは虹の松原及び唐津市街が一望できる。また、松浦川河口に突き出した形で存在する満島地区(行政区上は東唐津1丁目~4丁目)も特徴的な地形である。東松浦半島から松浦川河口付近一帯は玄海国定公園に指定されている。

佐賀市多久市伊万里市福岡県糸島市長崎県松浦市などと境界を接する。

気候

唐津市枝去木
気候表 (説明)
123456789101112
 
 
80
 
8
2
 
 
81
 
9
3
 
 
139
 
12
5
 
 
141
 
17
9
 
 
169
 
21
13
 
 
304
 
27
19
 
 
324
 
28
22
 
 
214
 
29
23
 
 
231
 
25
19
 
 
89
 
21
14
 
 
103
 
16
9
 
 
56
 
11
4
気温 (°C)
総降水量 (mm)
出典: 気象庁

気候区分は太平洋側気候に分類されることが多いが、日本海側気候に分類されることもある。これは福岡市などと同じく地形や海流が複雑に影響しあい、夏期において多雨な太平洋側気候の一面を見せつつ、冬場においては平野部で強風が吹き荒れる日本海側気候の一面も見せるためである。台風の直撃が少ないため年間の最大風速は8~12メートル程度で、台風の影響より冬の玄界灘の強風や春一番の影響が大きい(松浦川橋梁のある筑肥線和多田東唐津間がしばしば運休する)。年平均気温15℃、年間降水量1992mm、年間日照時間1783.9、平均風速2.1m/s(平年値、1979年2000年の統計)。

沿岸部は一年を通して朝と昼の寒暖の差が少なく、夏季に真夏日熱帯夜となることも佐賀平野部などと比べて少ない。また冬季の積雪や真冬日となることも稀である。山間部は典型的な高原の気候で、夏は過ごしやすく、冬は積雪が日常的である。そのため山間部の浜玉町鳥巣地区に所在する玉島小学校鳥巣分校は3学期の始業を他の小学校より1週間程度遅らせ、その代わり夏休みを短くしており、地元メディアなどでしばしば取り上げられる。

唐津市内のアメダス観測所は枝去木と和多田があり、うち枝去木では降水量のほか気温・風向・風速・日照時間の観測を行っているが、枝去木は標高110メートル地点にあり、観測データが唐津平野部とは必ずしも一致しないことに注意されたい。和多田は降水量のみの観測である(標高5メートル)。2010年(平成22年)2月より枝去木と和多田の両観測所は唐津市二タ子に移設し、唐津観測所となる。

人口

現市域の人口は1955年(昭和30年)の183,676人をピークに唐津炭田の衰退をみて一時13万人台に急減、その後14万人台に回復したがバブル期を経て再び13万人台に転じ、既に12万人台に差し掛かっている(推計人口)。現在は唐津平野への一極集中がみられるが、唐津平野の人口も1995年をピークに減少傾向にあり、市の総合計画には市全体人口が10年で6500人減るとする推計がある。

唐津市と全国の年齢別人口分布唐津市の年齢・男女別人口分布
紫色 ― 唐津市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
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総務省統計局 / 国勢調査2005年

市街地構成

唐津駅付近空撮
唐津駅付近空撮

都市核たる唐津平野部の市街地は、松浦川河口部に形成された旧唐津藩の城下町に端を発する旧市街と、その周囲の埋立地などに形成された新市街、高度経済成長期以降形成されたバイパス沿いの郊外型市街がある。

高度成長期からバブル期にかけては、九州電力唐津発電所唐津警察署、唐津港湾合同庁舎、唐津市消防本部などが集まる港湾地区たる西唐津(妙見)が西に、また当時は唐津のターミナル駅であった東唐津駅や東唐津気動車区、国道202号(旧道)があり東唐津朝市も開かれる東唐津(満島)が東に、その中間に市役所や中心商店街に近い大手口があり、3つの地域を戦後開通した産業道路(佐賀県道279号妙見満島線)により接続し、双方で均衡ある発展を続けてきたが、和多田の国道バイパス道路開通や国鉄筑肥線電化・新線開業に端を発して和多田の松浦川対岸の田園地帯であったが発展し、現在は東南に市街地が偏ってきている。

歴史

略史

古代~中世

地理的に大陸と近く、国内最古級の水耕稲作遺跡である菜畑遺跡が遺されているなど、古くから大陸との交流があったことをうかがわせる。また魏志倭人伝に記述のある末盧国(まつろこく、まつらこく)は唐津市の所在する東松浦半島に所在したとされており、古墳時代初期に造られた日本最古級の前方後円墳の一つとされる久里双水古墳や国の史跡である葉山尻支石墓群や谷口古墳、横田下古墳など数多くの遺跡も遺され、当時の繁栄がうかがわれる。

律令制では現在の唐津市域全域が肥前国松浦郡の一部に含まれ、『肥前国風土記』によると「松浦郡、郷一拾一所、里廿六、馬伍(うまや)所、烽捌所」とある。また、現在の鏡山に当たる山は「襟振峰は郡の東にあり」と記されているから、郡衙は、地区にあったと推定される。松浦の語の由来は明らかでないが、神功皇后紀(『日本書紀』巻第九 気長足姫尊)摂政前記夏四月の条に「松浦県に至り、願い事をしてから釣り糸をたれると鮎が釣れた。珍しきものと言ったことを、その所の人が名付けて梅図邏(めづら)国という。今松浦というは訛りなりと」(大意)と説明している。また、末盧国の「まつら」がそのまま地名となったともいわれる。万葉集には鏡山、玉島川、松浦川の情景が詠まれている。

平安時代からは肥前国府による統治となったが、国司政治が緩みだした平安期中頃には松浦地方各地の豪族が連合体としてこの地を支配し、松浦党と呼ばれた。現在の唐津市を含む東松浦郡西松浦郡の地域は上松浦郡と呼ばれ、波多地区(唐津市北波多・伊万里市南波多)を拠点とする波多氏が最大の勢力だった。一族はそれぞれの所領の地名を名乗り、ほかに相知氏、佐志氏、呼子氏などがいた。また、拠点として波多氏の岸岳城(鬼子岳城)や獅子城などの城が築かれた。

戦国時代には竜造寺氏の侵略を防ぐなどしていたが、豊臣秀吉が九州征伐を開始するとこれを出迎え従った。豊臣秀吉は1591年天正19年)朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として名護屋地区に名護屋城を築城した。1593年文禄2年)には寺沢広高唐津藩を与えられ、上松浦地方の統治を始めた。唐津は古くから大陸への要所だったといわれることもあるが、「唐津」の地名が記述などで現れるのはこれより後である。またこの年には秀吉の怒りをかった波多氏が滅ぼされたが、地元民の同情から岸岳末孫の祟りの話がいわれるようになった。

江戸時代

寺沢広高は波多氏の滅亡後、岸岳城の麓に仮城を造営し仮の居城とした。広高は1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。1602年慶長7年)より唐津城の本格的な築城を行い、1608年慶長8年)に城下町共々完成した。このとき東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、波多川(現代における松浦川)がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。広高は松浦川の流路変更(治水事業)に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。またこの頃は現在に至る唐津焼の技法が確立された時期でもあり、1615年(元和元年)には中里太郎右衛門陶房などが唐津藩の御用窯に指定されている。

広高の子の堅高は唐津藩二代藩主となったが、天草領に構えていた富岡城島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は1647年正保4年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となり、寺沢氏が改易となると唐津藩領は一時天領となった。次に慶安元年(1649年播磨国明石城大久保忠職が唐津藩主となった。1678年延宝6年)には大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。1691年元禄4年)大給松平氏志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。1762年宝暦12年)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。1817年文化14年)に、後に天保の改革を行った四代目の水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後は小笠原氏が統治した。譜代大名6家が入れ替わり、長期間による藩主家の一大支配時代が一度も到来しないまま、明治維新により唐津藩は姿を消した。

1819年(文政2年)、伊勢神宮を参拝後の帰途に京都で見た祇園祭に感動した刀町の石崎嘉兵衛が、帰郷後仲間たちと獅子の頭を製作し、唐津神社に奉納した。この後唐津神社秋季例大祭である唐津神祭が現在のような曳山を曳く祭に変化していくきっかけとなった。後に一時期唐津山笠とも呼称したが、その後唐津くんちと呼ぶようになった。

明治~戦前

大正期撮影とみられる唐津くんちの様子。右に唐津軌道の軌道がみられる
大正期撮影とみられる唐津くんちの様子。右に唐津軌道の軌道がみられる

廃藩置県にともない唐津藩は唐津県となり、同時に唐津城は本丸が舞鶴公園となり、他の区画は民間払い下げとなり建物も破却された。その後伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県と変遷し1883年(明治16年)に佐賀県が長崎県から分離独立し佐賀県の一部となった。また1889年(明治22年)の町村制施行で東松浦郡唐津町などが発足。昭和初期までに満島村と唐津村を編入し1932年(昭和7年)に市制施行、唐津市となった。

古くから海上交通の拠点であった唐津は、この後貿易の拠点として急速に発展していった。1882年明治15年)に当時満島にあった唐津港唐津炭田の石炭輸出を開始。1889年(明治22年)には特別輸出港に指定され、同時に長崎税関唐津出張所が設置された(3年後に税関支署に昇格、戦後降格し門司税関に移管)。さらに後述する鉄道の開通により、以後満島の貿易機能は順次西唐津・大島へ移転し現在に至る港湾地帯を形成した。貿易額は日を追う毎に増大していったが、第一次世界大戦の影響で外資関係が先細りとなり、1920年頃をピークに貿易額は減退し、昭和初期には石炭不況や第二次大戦の影響でさらに衰退していった。

明治末期から大正・昭和初期にかけて唐津の交通は大きく発達した。1898年(明治31年)に唐津興業鉄道(後の唐津鉄道、現JR唐津線)が開通したがこれに収まらず、翌々年の1900年(明治33年)に満島馬車鉄道による馬車軌道が満島松原口(現東唐津駅) - 浜崎松原口(現浜崎駅)間に開通しその後松浦橋を経由して中心部の大手口を越え西唐津果ては佐志町まで延伸された(その後石油発動機による運行となるが自動車への転換にともない廃止)。福岡方面への鉄道は1926年(大正15年)に東唐津から博多まで全通、伊万里方面は1935年(昭和10年)にようやく全通したが(ともに北九州鉄道による)、まもなく国有化された。北九州鉄道のバス事業は現在に至る昭和自動車に譲渡された。

戦後~昭和末期

戦時中唐津はほとんど戦災に遭うこともなく、また明治期から道路の拡幅や新規開通などはあったが大規模な区画整理が行われることはなかったため、城下町の情緒を残して発展していくこととなる。1953年(昭和28年)には城内と満島を結ぶ舞鶴橋が4年の歳月をかけて完成し(舞鶴橋の開通時は曳山が渡り初めをした)、西唐津と東唐津を結ぶ産業道路佐賀県道279号妙見満島線)が開通した。また、この年には唐津競艇が初開催し、当時の市財政を潤わせた。1954年(昭和29年)には鏡村久里村鬼塚村湊村を編入(人口約7万)。炭鉱の発展で東松浦郡と唐津市を合わせた人口はこの頃最盛を迎え約19万人弱であった。

唐津城模擬天守
唐津城模擬天守

1955年(昭和30年)、地元財界の有力者であった昭和自動車社長の金子道雄が市長に就任。六・三制の導入による新制中学校の校舎新築費用などによって極度に窮迫していた市財政を再建するため、金子は財政再建団体の指定を受けることを決意。翌年、再建期間を9年間とし唐津市は財政再建団体の指定を受けた。1965年(昭和40年)に財政再建団体の指定から外れると、金子は唐津城址への模擬天守建設計画を打ち出した。市民のみならず専門家などからも「歴史を壊すな」と非難の声が上がったが、しかし金子は「完成後は日本一の名城となる」と反対を押し切り、翌年完成させた。

また電力需要の増大にともない、1967年(昭和42年)唐津港妙見埠頭附近の埋立地に九州電力唐津発電所火力発電所)1号機(15.6万kW)が運転を開始。1971年(昭和46年)には2号機(37.5万kW)が、その2年後には3号機(50万kW)が運転を開始した。さらに、1975年(昭和50年)には九州電力玄海原子力発電所1号機(55.9万kW)が運転を開始。その他既設の水力発電所なども含め唐津もとい東松浦地域は県内のみならず北部九州の電力供給の要となった。

1970年(昭和45年)には唐津競艇場が広大な土地を有する原地区()に移転。また同年には唐津市文化会館(現唐津市民会館)が旧唐津神社境内に開館。1980年(昭和55年)には唐津大手口バスセンターが市内大手口に開業。その翌年には複合スポーツ施設である体育の森公園が和多田大土井に開設された。

1982年(昭和57年)には国鉄唐津線の連続立体交差化事業が完成。翌年には筑肥線(筑肥東線)の電化開業、筑肥線(筑肥東線)と唐津線の短絡、福岡市地下鉄空港線との直通運転が一挙に行われた。

平成

1994年(平成6年)に現唐津市域の市町村に玄海町を加えた10市町村で懇話会「唐津・東松浦合併懇話会」を設置。

行政区域の変遷

旧唐津市以外の2005年以降に合併した町村の変遷については「東松浦郡」を参照
旧・唐津市の県内位置(1954年)
旧・唐津市の県内位置(1954年)
  • 1931年(昭和6年) 2月1日 - 唐津村を編入。翌年、唐津市として市制施行する。
  • 1932年(昭和7年)1月1日 - 市制施行して唐津市となる。
  • 1941年(昭和16年) 11月3日 - 佐志町を編入。
  • 1954年(昭和29年) 11月1日 - 鏡村・久里村・鬼塚村・湊村を編入。
  • 1955年(昭和30年) - 北波多村の一部を編入。
  • 1958年(昭和33年) 1月1日 - 切木村大良地区を編入。
  • 2005年(平成17年) 1月1日 - 唐津市と東松浦郡浜玉町・厳木町・相知町・北波多村・肥前町・鎮西町・呼子町が合併(新設合併)し、新たに唐津市となる。
  • 2006年(平成18年) 1月1日 - 七山村を編入。

行政

概略

唐津市役所(本庁)
唐津市役所(本庁)
唐津市役所(相知支所)
唐津市役所(相知支所)
唐津市二タ子出身。佐賀県立唐津西高等学校(24期)、国士舘大学文学部中退。佐賀県議会議員などを経て2003年4月28日の旧唐津市長選で当選後、現在の唐津市長選にも引き続き立候補し再選を続けている。初当選時は戦後の歴代市長では最年少での当選ということで話題となった。音楽プロデューサーの西尾芳彦は唐津西高時代の同級生である。

行政課題は数多く、多額の借金を抱えたことによる深刻な財政難の改善、経済・産業の活性化、大手口地区再開発ビルへの入居、市庁舎の老朽化に伴う新市庁舎の建設などの課題がある。特に財政難に関しては、旧東松浦郡との合併協議の際、電源立地地域対策交付金の交付を受けていて財政に余裕のある玄海町が合併協議会から離脱するなどしていて、更に新市庁舎の建設や早稲田佐賀中学校・高等学校の開校による県所有建築物の購入などによって、今後さらに財政が悪化する恐れがある。坂井市長は2008年12月の市議会で「合併から15年後の2020年度には、財政健全化団体への移行が懸念される」と答弁した[1]

2007年平成19年)12月、市の固定資産評価のための地図作成事業を、GIS九州(福岡県北九州市)に落札させようと便宜を図ったとして、競売入札妨害の疑いで市総務部長が逮捕された。これは、従来から揺らいでいた唐津市役所の信頼を更に失墜させる要因となった。

  • 副市長
    • 吉本金壽(よしもと きんじゅ 2005年(平成17年)3月25日-)

歴代市長

(旧)唐津市(1932年~2004年)歴代市長
氏名就任年月日退任年月日
初代河村嘉一郎1932年2月18日1936年2月16日
2代西山茂1936年2月18日1939年1月7日
3代萩谷勇之助1939年1月20日1939年4月5日
4代岸川善太郎1939年7月29日1946年10月24日
5代清水荘次郎1947年4月16日
6代金子道雄
7代瀬戸尚
8代野副豊
9代福島善三郎
10代坂井俊之2004年12月31日
(現)唐津市(2005年~)歴代市長
氏名就任年月日退任年月日
初代坂井俊之2005年2月6日現職

2009年唐津市長選挙
※当日有権者数:105,221人 最終投票率:71.94%(前回比:-5.1ポイント)

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
坂井俊之47無所属43,425票%
麻生 茂幸59無所属25,622票%
田中 路子61無所属5,330票%

市議会

会派名
34
志政会27
公明党3
日本共産党唐津市議団3
民主党みらい1
(欠員)-

警察・消防・海上保安

  • 唐津警察署
    • 呼子幹部派出所
    • 相知幹部派出所
  • 唐津市消防本部(唐津市消防署)
    • 東部分署、南部分署、西部分署、北部分署、中部派出所
  • 唐津海上保安部

主な事業

中心市街地活性化事業

大手口街区再開発ビルの建設に伴い解体される唐津大手口バスセンター
大手口街区再開発ビルの建設に伴い解体される唐津大手口バスセンター

本項では1990年代以降の郊外大型店進出により拠点性を失った中心市街地の活性化を目的とした一連の事業について記述する。

唐津大手口街区再開発ビル(仮称)
事業主体は地権者のうち3者(まいづる百貨店昭和自動車・合名会社大手会館)の出資で設立した大手口開発。市役所東隣に位置する旧まいづる百貨店2002年閉鎖)と、隣接し通路で接続する昭和自動車唐津大手口バスセンターほか併せて4ビルを解体し、新たに延べ床面積8200平方メートルの地上6階の鉄筋コンクリート造ビルを建設する計画。1階にバスセンター及び店舗、2階に店舗、3階に市民交流センター、5階及び6階に唐津市の行政事務所が入居し、国と市・県が補助金を支出する。2009年度中に実施設計を行い、2011年6月完成予定。

土地区画整理事業

唐津駅南土地区画整理事業
JR高架化にあわせて1980年から唐津駅南口側地区の土地区画整理を行う事業。駅前の30m幅都市計画道路(シンボルロード)の整備、駅前広場(4ha)の整備、町田大橋の架橋、河川改修、道路の拡幅、町田交差点から国道204号(唐津バイパス)への接続道路の敷設などが行われた。1994年には唐津市近代図書館が事業地内に開館した。当初の予定ではシンボルロード沿いには商店街や西友などの大型商業施設が建設される予定だったが、唐津駅北口側の商店街などの反発に遭い、結果シンボルロードから里山が見渡せるほど道沿いに何もない状況のまま事業は終盤を迎えている。最近は以前に比べて空き地は少なくなったが、依然として中心市街地離れした景観であることは否定できない。2010年度から清算業務に入る。
新東唐津駅土地区画整理事業
JR新線開業に伴い(現在の松南町)に移転した東唐津駅の周辺を1979年度から土地区画整理法に基づき開発する事業。「東唐津駅南地区」地区計画とも呼ばれる。駅前公園の整備や道路の整備改良拡幅、新たな住宅用地の造成などを主な事業内容とする。1982年には総合病院である松籟会河畔病院が、1988年には唐津コンピュータ専門学校(現唐津ビジネスカレッジ)がそれぞれ駅前に立地。1991年平成3年)には虹松団地を含めた東唐津駅周辺を松南町として新たに行政区を発足させ住居表示が施行された。それ以降特に大きな動きはなく事業の進行は鈍化していたが、佐賀県立唐津東中学校・高等学校2007年に事業地内に移転させることが決まったことにより事業は大きな進展を見せ、2009年までにほぼ完了している。

都市間交流・国際交流

姉妹都市・提携都市

経済

就業人口

第1次産業

果樹野菜・肉用牛などの生産が主である。や久里などの平野部には初代唐津藩寺沢広高による河川改修事業の付随事業として開発された広大な水田が広がっており、現在も米の生産が主流だが、減反政策の影響で大豆などの豆類や大麦・小麦などの麦類の生産へシフトしてきている。浜玉地区には大規模な果樹園が広がり、ハウスみかんが特産である。

林業については、輸入材の影響や後継者不足により厳しい状況にあり、また水産業についても、唐津港水産基地の老朽化や人材不足により、唐津湾周辺での水揚げ量は年々減少しており、衰退の一途にある。

第2次産業

製造業建設業が中心で、いずれも経営環境は厳しい。

主な工業集積地として、唐津鉄工団地(中原地区)、唐津石志工業団地(石志地区)、岸山工業団地(北波多岸山地区)が挙げられる。旧唐津町時代は栄町・船宮町のある外町埋立地が唐津の代表的な工業地帯であった。

第3次産業

イオン唐津ショッピングセンター
イオン唐津ショッピングセンター

商業及び観光業が中心であるが、商業は近年西九州自動車道二丈浜玉道路の整備や筑肥線の電化による福岡都市圏へのアクセス向上が原因となって、県外へのショッピング依存度が高まっており、市内商業の衰退を招いている。また、観光業についても同様の理由で日帰り観光の割合が主という傾向を示し、2010年初頭には大規模な旅館であった城内閣が営業を停止した。

1990年代から郊外に大型商業施設が進出し、この影響で唐津中央商店街をはじめとする市内各地の商店街では店舗の閉鎖や撤退が続き、空洞化が問題となった。また、大名小路地区にある地元資本のまいづる百貨店も2002年に閉鎖。その後付近に新たな店舗を設置し、スーパーマーケットへの完全な業態転換を図った(まいづる本店ショッピングプラザ)。

本社を置く主な企業

まいづる百貨店物流センター
まいづる百貨店物流センター

マスメディア

受信可能な放送局
※ケーブルテレビへの加入が前提である。

ケーブルテレビ

ケーブルテレビに準ずる組織は以下の3局のほか、複数の共同受信組合及び共聴施設が存在するが、地上デジタル放送への完全移行に伴う唐津市の情報基盤整備事業により2011年(平成23年)までに全ての共同受信組合が廃止され、唐津市有線テレビジョンに統合される。

なお、唐津市有線テレビジョンに加入した住民は、唐津ケーブルテレビジョンネットフォーの独立チャンネルを受信することができる(地域によって受信可能なチャンネルは異なる)ほか、3局全てにおいて唐津市の行政放送を視聴することができる。

新聞社
1946年に唐津新聞(夕刊)を創刊したが、2008年1月1日に廃刊となった。かつて九州花火大会を主催するなど地域活動を積極的に行っていた[2]が、唐津新聞の廃刊で事業規模を大幅に縮小し、現在はチラシ広告の企画・制作・発行が主な事業となっている。

コミュニティFM
2010年(平成22年)4月に開局。県内初のコミュニティ放送局である。

フリーペーパー

フリーペーパー誌として「tsunami」が月刊で発行されている。

事業所を置く主な企業

第2次産業
第3次産業
同社と唐津市が協定を結び、約1年の準備期間ののち2008年平成20年)4月に正式稼働したコールセンター。

健康・福祉

統計はすべて2000年10月1日国勢調査のもの。当時唐津市ではなかった地区は対象外。

  • 平均年齢 : 41.7歳
    • 年少人口割合 : 16.9%
    • 生産年齢人口割合 : 63.5%
    • 老年人口割合 : 19.5%

医療

唐津地域総合保健医療センター
唐津地域総合保健医療センター

市内の総合病院は、千代田町にある唐津地域総合保健医療センターを中心に各地に点在する。中核となる病院は唐津赤十字病院である。2005年平成17年)4月には市が新たに唐津市民病院きたはたを開設した。

  • 唐津地域総合保健医療センター
  • 唐津赤十字病院
  • 済生会唐津病院
  • 唐津市民病院きたはた
  • 唐津第一病院
  • 河畔病院
  • 進藤病院

教育

唐津の教育の象徴とも言える唐津城直下の学舎。以前は唐津東高が使用していたが現在は早稲田佐賀中高の校舎として改築中
唐津の教育の象徴とも言える唐津城直下の学舎。以前は唐津東高が使用していたが現在は早稲田佐賀中高の校舎として改築中

概観

唐津市は佐賀県北部学区に属し全体の生徒数の9割以上を占める。北部学区は県内他学区と比べて学力レベルが低いと言われ、2007年平成19年)度の全国学習状況調査では国語と算数(数学)の平均点が県平均に届かず、更なる学力レベルの低下を危惧した市教委が次年度から独自の学力テストを作成し長期休み明けに実施している(唐津地区基礎学力テスト[3]

生徒数の減少は北部学区も例外ではなく、320名8学級であった唐津東高校の募集定員は2004年に280名7学級、2005年に240名6学級となり、もともと生徒数の少なかった上場では2005年に唐津北高校と東松浦高校が統合し佐賀県立唐津青翔高等学校となり、2008年度には唐津西高校普通科英語コースが募集を停止し募集定員200名5学級となった。

また、早稲田佐賀が開校するまで私立中学校・高等学校が存在せず、さらに大学が存在せず高等教育機関に乏しい唐津は、若者の多くが高校卒業後に高等教育を受けるため市外へ流出し、当該学校卒業後も就職などで市外へ留まることが多い。そのため、20代から30代の人口が極端に少なく、未成年及び高齢者の人口が多いという状況を招いている。このため坂井市長は学園都市構想を掲げ[4]、大学などの誘致を模索している。

以前は大学進学を志す学区内の中学生の多くが佐賀県立唐津東高等学校に入学していたが、1980年代以降弘学館久留米大附設といった近隣の有名私立進学校に生徒の一部が流出している。また1990年代に家政科を廃し新たに英語コースを設置した佐賀県立唐津西高等学校の進学指導の強化がみられる。2007年(平成19年)より唐津東高校は新たに中学校を併設し中高一貫教育を開始した(佐賀県立唐津東中学校)。

市立学校再編

統廃合が検討されている東唐津小学校
統廃合が検討されている東唐津小学校

市教委は市立学校の統廃合を進めており、2009年の時点で42校ある小学校を34校に、23校ある中学校を18校にそれぞれ減らす方針を明らかにしている[5]

2010年(平成22年)に加部島小学校が呼子小学校へ、田頭小学校が相知小学校へ、打上小学校赤木分校が打上小学校へ、向島小学校が入野小学校へ統合される。また向島中学校は生徒が2年間在籍しないため閉校。2011年(平成23年)を目処に箞木小学校と本山小学校を統合。時期未定だが、呼子中学校・名護屋中学校・打上中学校の三校統合、第四中学校・大良中学校・切木中学校の三校統合が予定されている。

そのほか、東唐津小学校の外町小学校への統合が市議会で検討されている[6]

市内の学校・教育機関

各種研究施設等

国立学校

高等学校

県立
私立

中学校

市立中学校については「佐賀県中学校一覧」を参照。
県立
私立

上記二校はいずれも中高一貫教育を行う中学校である。

市内の中学校の名称は当初ナンバリングで統一されていたが、市町村合併に伴い市内の多くの中学校が地名をもとにした名称となり、第二中学校は西唐津中学校を分離後佐志中学校と改称し(校歌に唐津佐志中というフレーズがあり二中時代を思わせる)、第三中学校は高島中学校と改称した。

小学校

小学校の一覧については「佐賀県小学校一覧」を参照。

一部を除く市内全体で児童の減少が進んでおり、分校の廃校が順次進められている。1957年(昭和32年)に大成小学校と志道小学校に分離された旧唐津小学校校区を以て、2004年(平成16年)に大志小学校を新設し前述した二小学校は廃校となった。

特別支援学校

児童自立支援施設

  • 佐賀県立虹の松原学園
2007年(平成19年)4月1日に唐津市立浜崎小学校及び唐津市立浜玉中学校の分校となった。

文化

古くから大陸との交易拠点であった松浦地方では、多くの歴史的な出来事が起こり、多彩な文化が発達した。特に16世紀終盤に松浦川河口付近に成立した城下町・唐津では商業が発達し、唐津くんちに代表される豪著で活気溢れる豊かな町人文化が育まれた。

祭事

唐津駅前に並んだ曳山
唐津駅前に並んだ曳山

漆の一閑張りと呼ばれる手法で製作された巨大かつ豪華絢爛な曳山(ひきやま)が、曳子たちの「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声とともに唐津の旧城下町を練り歩く唐津神社の秋季例大祭たる唐津くんちは、期間中50万人以上の観光客が訪れる唐津市内最大の祭りである。期間中は市内の多くの個人商店や企業が休業し、街全体が祭りムード一色となる。

市内では、唐津くんちのほか多くの秋祭り(=くんち)が催されている。

  • 唐津くんち11月2日-11月4日
  • 浜崎祇園山笠(7月第4土曜・日曜)
  • 相知くんち(10月第3土曜・日曜)
  • 呼子大綱引(6月第1土曜・日曜)
  • 星賀八幡神社秋祭り(星賀山笠)(10月下旬)
  • いろは祭り(11月第2土曜・日曜)

催事

  • 唐津ジュニア音楽祭
  • からつ鍋まつり

娯楽

市内には1990年代まで東宝大劇や中央大劇といった映画館が複数存在したが、現在は市内に一軒も存在せず、映画を見たい市民は佐賀市福岡市方面へ足を伸ばすこととなる。

方言

方言としては唐津弁があるが、1960年代以降テレビラジオの普及による標準語の影響を受け、一部の高齢者などを除き唐津弁がそのまま使用される機会は徐々に減ってきており、現在は肥筑方言の特徴を残すのみとなっている。

唐津弁は、唐津城下町に伝わる代表的民話「勘右衛話」(かんねばなし)にその特徴を見出すことができる。

特産品

文化施設

スポーツ施設

  • 唐津競艇場
  • 体育の森公園
    • 唐津市文化体育館
    • 唐津市陸上競技場
    • 唐津市野球場
    • 体育の森公園相撲場
  • 松浦河畔公園
    • 唐津市松浦河畔公園野球場
    • 唐津市松浦河畔公園ラグビー・サッカー場
    • 唐津市松浦河畔公園庭球場
  • さが社会保健センター唐津
  • 唐津市神田野球場
  • 唐津市屋内プール
  • 唐津市庭球場
  • 肥前体育館
  • 鎮西スポーツセンター

唐津市を舞台にした作品

映画
安本末子による日記小説を原作とする映画
アニメ
主要登場人物の一人である波留真理の出身地が唐津であると作中で言及されており、21世紀初頭の唐津市と思われる場所の描写がある。[7]
小説

交通

空港

最寄り空港は佐賀空港および福岡空港。市内からの距離は両空港とも大差はないが、空港自体の利便性やアクセスの良さ(電化路線である筑肥線西九州自動車道)などから、福岡空港を利用することが多い。

鉄道

唐津駅。市の代表駅で、利用者の多くがここに降り立つ
唐津駅。市の代表駅で、利用者の多くがここに降り立つ
東唐津駅。かつては河口付近にあり市の代表駅として賑わった。現在は中高生や通院者などが主に利用する
東唐津駅。かつては河口付近にあり市の代表駅として賑わった。現在は中高生や通院者などが主に利用する
西唐津駅構内にある車両基地(唐津鉄道事業部)
西唐津駅構内にある車両基地(唐津鉄道事業部

現在、速達列車は筑肥東線に快速列車が平日4往復、土休日5往復があるのみで、各都市への移動は普通列車が主体となる。

各都市への所要時間
  • 唐津駅から佐賀駅まで唐津線普通列車で最短1時間10分
  • 唐津駅から天神駅まで筑肥線快速列車で最短60分、普通列車で1時間20分程度。

1983年(昭和58年)まで博多駅長崎駅筑肥線松浦線佐世保線大村線経由で結ぶ急行列車『平戸』が設定されていたが、筑肥線の部分廃止により運行区間が唐津駅~長崎駅間に短縮され、1988年(昭和63年)には松浦線第三セクター松浦鉄道に転換されたことにより当該列車は廃止され、唐津市内の線区から優等列車が消滅した。

市内の路線・駅

九州旅客鉄道(JR九州)
快速列車及び普通列車が運行されている。運行頻度はラッシュ時毎時3~5本、日中は毎時2本程度である。一部の列車は、車両基地のある西唐津を始発・終点としている。また、半数の列車(快速列車は全便)が福岡市地下鉄空港線福岡市交通局)に直通する。残り半数の筑前前原で折り返す列車も、ほとんどが福岡空港線直通列車と接続している。使用される電車は6両編成で輸送量の多さを物語るが(日中の筑前前原-西唐津間は3両編成の電車もある)、唐津市内ではラッシュ時間帯以外は閑散としている。通勤・通学で主に利用される。
各駅停車のみの運行で、ラッシュ時日中問わず毎時1本未満(およそ3時間に2本)の運行である。すべての列車が、唐津線の西唐津・唐津を始発・終点としている。沿線は閑散としていて、伊万里方面への利用客のほかは、唐津市内の利用はあまり多くない。
各駅停車のみの運行で、ラッシュ時日中問わず毎時1~3本程度の運行である。西唐津と佐賀を結んでいる。沿線の高校生などが主に利用する。

筑肥線の電化と新線開業

かつて筑肥線は、松浦川の広い河口への架橋が出来ずに虹ノ松原駅から現在の線路よりも北寄り(海側)の線路を通り、松浦橋近くに存在した(旧)東唐津駅(現在の駅所在地よりも北寄り)でスイッチバックをして、松浦川の右岸を遡りながら松浦川を渡って山本駅唐津線と接続し伊万里方面へと向かっていた。

当時から、唐津市の中心駅は中心街にある唐津駅であったが、当時の唐津駅は唐津線の中間駅に過ぎず、ターミナル駅の役割は、列車本数・利用客とも最も多い筑肥線の(旧)東唐津駅が担っていた。しかし(旧)東唐津駅は、市役所等のある中心街(松浦側左岸地区)から行くには橋を渡らねばならず、唐津市街から博多方面に向かうには、唐津市内と東唐津駅を結ぶバスを利用する等の手段が必要であった。また、筑肥線と唐津線の接続・乗換えは、市街地から南に離れた山本駅に限られていたため、唐津市では中心駅の機能が唐津駅・(旧)東唐津駅・山本駅の3駅に分散されていた。

これらの問題を解消するため、中心駅を唐津駅に一本化することとなり、1983年(昭和58年)の筑肥線の電化とあわせて呼子線の一部区間(虹ノ松原駅~唐津駅間)を先行して新規開業するとともに虹ノ松原駅~(旧)東唐津駅~山本駅間が廃止され、唐津駅~山本駅間を唐津線と筑肥線の二重戸籍区間とした。 これにより(旧)東唐津駅の代替として新線上に(現)東唐津駅が設置された。廃止された(旧)東唐津駅の跡地は大和ハウス工業に売却され、グループ会社の大和リゾートが運営・展開するダイワロイヤルホテルズの唐津ロイヤルホテルとなっている。

なお、呼子線の残り区間は未成線のまま開業することなく現在に至っている。また、唐津駅~山本駅間は1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化と同時に再び唐津線のみの路線に戻り、筑肥線は分断された格好になった。

港湾・海上航路

市内には玄界灘唐津湾に小さな島が点在し、それぞれの島民の生活の足として、多数の航路が運航されている。

港湾
明治から昭和初期にかけて国内屈指の貿易港および石炭積み出し港として繁栄した。現在も唐津港周辺(妙見町、大島地区)には広大な土地が再開発から取り残されており、かつての繁栄を窺うことができる。
  • 呼子港
航路
1日4往復の運航で、使用する船舶の愛称はエメラルドからつ2007年(平成19年)までは呼子港(旧呼子町)から運航され、その名称も呼子・壱岐フェリーであった。
  • 宝当桟橋(千代田町)~高島(唐津市漁業協同組合高島支所)
1日6往復の運航。宝当神社で全国的に有名になった高島と、唐津市中心部とを結ぶ。
  • 湊~神集島(唐津市漁業協同組合神集島支所・からつ丸)
1日9往復の運航。神集島と湊地区を結ぶ。

バス

昭和自動車の一般路線バス(宝当桟橋にて)
昭和自動車の一般路線バス(宝当桟橋にて)
画像:Showa Bus - Saga 200 ka 191.jpg
昭和自動車の特急バス(いまり号)

路線バス

市内で路線バスを運行している業者は昭和自動車(昭和バス)のみで、市内の唐津大手口バスセンターを中心に路線網が網羅されている。佐賀方面・伊万里方面・上場方面・七山方面へ向かう中距離路線バスのほか、市内循環バスが運行されており、松浦橋・東唐津・宝当桟橋を経由して唐津駅に至る東コースと、日赤病院前・西唐津駅・唐津港を経由して大手口に至る西コースがある。昭和自動車以外に定期路線バスを運行する業者はなく、唐津市内のバス交通は昭和の天下であると言える。

唐津市は赤字バス路線の赤字分を補うため、昭和自動車に補助金を支出している。このため、昭和バスの市内路線の多くは事実上市営バスのような様相を呈している。

高速・特急バス

路線バスと同じく昭和自動車が運行している。

道路

高速道路

福岡方面へ向かう高速道路有料道路自動車専用道路)は佐賀方面へ向かうものに比べ整備が比較的進んでいる。西九州自動車道二丈浜玉有料道路経由して福岡都市高速と直結する福岡前原道路を経るのが一般に示されるルートだが、唐津ICは市街地から離れているうえ現状暫定2車線(最高速度60km/h)での開通のため、国道202号(唐津バイパス)を経由するドライバーが多い。

現在、2011年内の開通を目指して唐津IC-北波多IC間の整備が行なわれている。

唐津IC-長部田IC間は基本計画区間。

一般国道

道の駅

観光地

名所・旧跡

出身有名人

政治・経済・産業
スポーツ
文化・芸能
軍人

その他

脚注

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参考文献

  • 石井忠夫 『明治・大正の唐津』 唐津商工会議所、1977年

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

唐津市

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