富士重工業についての最新情報、関連する画像や動画を紹介。(出典:Wikipedia)

こんなキーワードで検索されてます

こんなキーワードで検索されてます

富士重工業株式会社
{{{1}}}
種類株式会社
市場情報
東証1部72701960年3月上場
略称富士重工、富士重、FHI
本社所在地 日本
〒160-8316
東京都新宿区西新宿1丁目7番2号
設立1953年7月17日
業種輸送用機器
事業内容自動車航空機の製造・整備
産業用機器の製造・整備
代表者代表取締役社長 森郁夫
資本金1,537億95百万円
売上高単体9,692億円
連結1兆4,457億円
(2009年3月期)
純資産単体3,802億円
連結3,947億円
(2009年3月31日現在)
総資産単体8,203億円
連結1兆1,654億円
(2009年3月31日現在)
従業員数単体12,162名 連結27,884人
(2008年12月31日現在)
決算期3月31日
主要株主トヨタ自動車 16.47%
主要子会社スバル オブ アメリカ
イチタン
外部リンクhttp://www.fhi.co.jp/
 Template‐ノート:基礎情報 会社 
富士重工本社(新宿・スバルビル)
富士重工本社(新宿・スバルビル)

富士重工業株式会社(ふじじゅうこうぎょう)は、日本重工業メーカーのひとつ。「スバルSUBARU )」のブランド名で自動車などを製造している。通称「富士重工」、「富士重(ふじじゅう)」とも。英訳名はFuji Heavy Industries Ltd.(英略称はFHI)。

目次

歴史

1917年5月、海軍機関大尉中島知久平によって群馬県新田郡尾島町(現:群馬県太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とし、太平洋戦争終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった「中島飛行機」(1945年に富士産業と改称)が、富士重工業のルーツである。

軍需から平和産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により1953年に富士重工業を設立、1955年に参画各社が富士重工業に合併されることで企業としての再合同を果たした。

1958年発売の軽乗用車スバル・360」と、その派生型である1961年発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、以後「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立し、その他の分野にも多角的に進出しながら現在に至っている。

富士重工業の誕生まで

中島飛行機

中島 九七式戦闘機
中島 九七式戦闘機
中島 四式戦闘機「疾風」
中島 四式戦闘機「疾風」

中島飛行機」は、民間機の開発も行ったが、主として太平洋戦争までの陸海軍用機の需要に応え、軍用機およびそのエンジン開発に取り組んだメーカーである。特に1937年に勃発した日中戦争以降、終戦までに陸軍九七式戦闘機一式戦闘機「隼」二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」四式戦闘機「疾風(はやて)」[1]海軍艦上偵察機「彩雲」[2]など多数の著名な軍用機を送り出した。エンジンメーカーとしては、「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)に搭載された1000馬力級の「」エンジン、大戦後期の「疾風」や局地戦闘機「紫電改」に搭載された「」エンジンなどの航空機用発動機を開発。三菱重工業川崎航空機と並び、航空機製造会社として日本最大規模の存在であった。

企業解体と平和産業への転進

日本の敗戦とともに、GHQより航空機の研究・製造の一切が禁止され、中島飛行機は新たに「富士産業[3]」と改称された。戦時中、最先端の航空機開発に取り組んだ優秀な技術者たちの生活は、各工場毎に、自転車、リヤカー、自動車修理、果ては鍋や釜、衣類箱、乳母車などを作って糊口を凌ぐ日々へと一変した。

このような状況の中、太田と三鷹工場の技術者たちは、当時進駐軍の兵士たちが移動に利用していたアメリカ製の簡易なスクーターパウエル」に着目する。軽便な移動手段としての販路を見込めると考えられたことからスクーターの国産化が計画され、早速、敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作、1947年に「ラビットスクーター」として発売した。「ラビット」は運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、メーカーの屋台骨を支える重要な商品となった。「ラビット」シリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰り返しつつ富士重工業成立後の1968年まで生産された。

また航空機製造で培った板金・木工技術を活用し、1946年からバスボディ架装にも進出、特に従前の「ボンネットバス」より床面積を大きく取れるキャブオーバー型ボディの架装で、輸送力不足に悩むバス会社から人気を得た。さらに1949年にはアメリカ製リアエンジンバスに倣い、得意の航空機製造技術を生かした、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」が完成。フロントエンジン型キャブオーバーバスより更にスペース効率に優れることから成功を収め、以降、日本のバスボディ・シャーシの主流は続々とリアエンジンへ移行していく。

このようにして平和産業へ転進した富士産業であったが、1950年8月、当時の政策によって財閥解体の対象となり、工場毎に15社以上に分割されてしまった。

富士重工業成立

1950年6月に勃発した朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらしただけでなく、GHQの日本の占領政策を一変させた。1952年4月、サンフランシスコ講和条約が発行すると、旧・財閥から民間賠償用としてGHQに接収されていた土地・建物の所有者に返還がはじまり、富士工業(太田三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化、1952年12月、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)を加えた4社が合併同意文書に調印した。

同じ頃、1953年保安庁(現:防衛省)予算に練習機調達予算が計上され、航空機生産再開に向けて、アメリカ・「ビーチ・エアクラフトT-34 メンター」の製造ライセンス獲得に国内航空機メーカー各社は一斉に動き出した。当時、再合同の途上にあった旧・中島飛行機グループも再合同の動きを加速。1953年5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社「富士重工業株式会社」が発足[4]

1954年9月、6社が合併契約書に調印。1955年4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に「富士重工業株式会社」としてスタートした(当時の資本金:8億3050万円、従業員:5643名)

旧・中島飛行機の発動機開発の拠点だった荻窪工場と浜松工場を引き継いだ富士精密工業は、中島飛行機再合同の動きが本格化した1952年には、事実上、すでにタイヤメーカーのブリヂストンの資本下[5]に入っており、再合同には参加しなかった。[6]

また、この時再合同に加わらなかった、富士機械工業(現:マキタ沼津)など3社も、のちに富士重工業の関連会社として加わっている。

富士重工は、1966年に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。この存続会社の東邦化学株式会社は1965年に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年に一旦消滅している。これは株式額面金額変更が目的の事務的なものである。[7]

その後の推移と業務提携

詳細は「スバル」を参照

レオーネを発売した1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始。オイルショック排気ガス規制などの消費者の自動車に対する要求の変化や、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功した。

1968年から1999年まではメインバンク(日本興業銀行/現:みずほコーポレート銀行)が同じ日産自動車と提携、日産・チェリーパルサーサニーなどの委託生産を請負い、工場稼働率のアップを図っていたが、設計の共同化や部品の共用化などが本格的に行われることはなかった。

1970年代中盤からは、南米オーストラリアを中心としたアジアオセアニア地方、中東ヨーロッパなどにも進出。1970年代以前には年産10万台にはるかに満たなかった生産台数を、1970年代後半には20万台規模にまで増やし順調に企業規模を拡大した。

しかし、1985年9月プラザ合意以降の急激な円高とアメリカ市場との「共生」が求められるようになった時代背景の中で、北米市場での深刻な販売不振に直面。 1987年いすゞ自動車との共同出資で、スバル・イスズ・オートモーティブ(SIA)を設立して現地生産も開始した[8] が、主に魅力的な車種展開が図れなかったことや、企業規模から他国産メーカーと比べ製造コストを劇的に下げることができなかったことなどから、1989年には300億円もの営業赤字を抱え、深刻な経営危機が報じられるまでになった。

しかし、折からの「バブル景気」によって資金調達のめどが順調に立ったことや、1989年1月レガシィの発売以来、順調に国内市場、北米市場での販売を回復することに成功。1990年にはUDトラックス(旧:日産ディーゼル)の経営再建に手腕を発揮した川合勇のもとで地道なコスト削減努力が続けられ、WRCへの出場など、CI(コーポレーテッド・イメージ)の積極的な訴求効果とあわせ、年産30万台規模の世界的に見て比較的小規模なマスプロダクツ・メーカーとして現在に至っている。

バブル崩壊後、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有の富士重工業株の売却を決め、2000年に放出株全てがゼネラルモータース(GM)に売却された[9]

しかし、GMの業績悪化に伴い2005年10月5日には、GMが保有する富士重工株20%をすべて放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が買い取って筆頭株主となり、富士重工業とトヨタ自動車が提携することで合意した。GMグループのスズキと、軽自動車の部品の共通化などをすすめてきていたが、今後、トヨタ自動車及びトヨタグループ(トヨタ傘下)のダイハツ工業との開発部門の交流や部品共通化によるコスト削減効果が期待される。

航空機再生産

T-34 メンター
T-34 メンター
富士 T-1
富士 T-1

1953年9月、富士重工業は「ビーチ・エアクラフト」と「T-34 メンター」製造ライセンス契約に調印。1955年10月、国産1号機を完成させ、防衛庁への納入が始まった。 さらに1957年11月、戦後初の国産ジェット機「T-1 練習機(初鷹)」の開発に成功。中等練習機として1963年までに66機を防衛庁(現:防衛省)に納入した。

1965年8月、民間向け軽飛行機FA-200「エアロスバル」の初飛行に成功。翌1966年10月から販売を開始。低翼式の機体を採用したFA-200は低速時の安定性に優れ、アクロバット飛行なども可能な万能機として好評を博し、298機を生産した。

戦後初の国産旅客機「YS-11」の開発にも参加。主翼桁と尾翼を担当。この経験はのちに、1973年12月、アメリカボーイング社ボーイング747の生産分担契約に実を結び、1974年には新世代旅客機ボーイング767の国際共同開発プロジェクトに参加。国際分業に大きな役割を果たした。

1974年、富士重工業はアメリカロックウェル・インターナショナル社と双発ビジネス機、FA-300の共同開発を開始。1975年11月に初飛行に成功、1977年から販売を開始した。しかし、その後、ロックウェル社が軽飛行機部門からの撤退したため、計画が頓挫。42機の生産実績に留まった。

スバル自動車部門

スバルSUBARU )」

生産拠点

スバル自動車部門

詳細は「スバル」を参照

航空宇宙部門

産業機器部門

環境技術部門

住宅事業部門

航空宇宙部門

日本航空業界の草分けである中島飛行機の後身で、現在も日本の航空宇宙業界で第三位であり、小型練習機やボーイング社向け分担生産を中心としているが、日本興業銀行が株主となり、役員を派遣して経営陣を占めるようになると、冒険的な航空宇宙事業への理解は低くなり、T-1の後継機であるT-4の受注競争に敗れると決定的になった。三菱重工業川崎重工業IHIなどと違い、現在の自社ウェブサイトには航空事業の詳しい項目が無い。US-1A改開発の際、防衛庁関連で汚職事件を起こしたことも、社名に傷を残すこととなった。一方、主翼など翼部製造の優秀さは定評があり、ボーイングからも表彰されているほか、国内開発でも貢献している。

YS-11開発参加やFA-200販売で国産機の実績を積んだものの、日米共同で開発したFA-300が大失敗した為、民間機の自主制作からは手を引いていたが、21世紀に入ってから三菱や川崎が独自の旅客機計画を進め、また、経営陣も富士重工業の生え抜き社員が多くなってきたことから航空機事業に前向きになったこともあり、10~15席程度の小型民間旅客機の開発計画を発表し、実現が期待されている。また、日本国外の企業とも共同開発を行っている。

沿革

納入実績

防衛省自衛隊)向

ライセンス生産

分担生産

民間向

自社開発
  • FA-200 エアロスバル
  • FA-300(富士710、ロックウェル・インターナショナル社と共同開発)
  • ドライビング・シミュレータ
  • RPH-2 無人ヘリコプター

分担生産

ライセンス生産

宇宙関連機器

産業機器

「ロビン」ブランドの小型汎用エンジンを開発・生産し、汎用エンジン業界ではシェア世界第4位。富士重工業内では唯一、米国と中国に生産拠点を持っている。

これらのエンジンは取り扱いの容易さと抜群の耐久性などで、主に土木工事現場で使われるランマーや発電機、コンクリートカッター、灌漑用のポンプ、構内作業車(モートラック)などに動力源として搭載される。 また、ゴルフカートスノーモービルATV(バギー車)、などに搭載されるエンジンも開発、生産している。これらのエンジンのほとんどはOEM供給されているため、一般人の目に触れる機会はほとんど無い。

モータースポーツへの取り組み

1990年より世界ラリー選手権(WRC)に参戦。三度マニュファクチャラーズタイトルを獲得するなど積極的に活動を行った。

スバルのラリーカーといえばインプレッサの印象が強いが、元々は当時発売間もないレガシィの促販のための参戦であった。1992年頃に一時撤退の方向に向かったこともあったが、WRC参戦が社員のモチベーション上昇に繋がっていたこと、それまでの数年間で良い結果を残しており日本国外からも注目されていたこと、競技車両も完成していたことなどもあり、当時の社長である長川合勇の判断により参戦を継続した。その後1995年から1997年まで三年連続でマニュファクチャラーズ部門優勝、ドライバー部門では1995年コリン・マクレー2001年リチャード・バーンズ2003年ペター・ソルベルグと三度優勝を果たした。近年は優勝からは遠ざかっており、2008年を最後にワークスとしてのWRC参戦を終了。ラリーはスバルの起爆剤であっただけに、現社長の森郁夫も撤退を「苦渋の決断」と述べた。[10]

その他WRC以外ではF1[11]ラリーアメリカ(現在もSubaru Rally Team USAが活躍中)、SUPER GT(GT300に参戦中)、スーパー耐久ニュルブルクリンク24時間レーススポーツプロトタイプカー世界選手権(WSPC)に参戦歴がある。ほぼスバルワンメイクのカテゴリ、FJ1600もある。

環境技術

住宅事業

富士重工では、小型のプレハブ住宅を製造しており、以前は通信販売で名高いセシールでも扱っていたことがある。

過去の商品

二輪車(スクーター

二輪車(オートバイ

  • 「ハリケーン」

バス車体架装事業

「ふじ号」
「ふじ号」
バス車体のメーカーズプレート
バス車体のメーカーズプレート

1946年に小泉ボデー製作所(当初別会社)でスタートし、日本で初めてのフレームレスモノコック構造によるリヤエンジンバス「ふじ号」(1949年)の開発に成功。後に富士自動車工業となり、スバル360等の開発を行い、現在の主力であるスバルブランドの乗用車にも発展した事業である。一時期はUDトラックス(旧:日産ディーゼル)を中心に大型自動車メーカー4社のバス車体を架装し、バス車体シェア1位を誇っていたが、シャーシメーカーのバス車体内製化(子会社での生産)で生産台数が減少した。1998年三菱ふそう日野自動車の架装から撤退、2002年1月に日産ディーゼルがバス車体の架装を西日本車体工業(西工、福岡県北九州市小倉北区)に集約することを決定したため、同年5月に事業存続は困難と判断し、伊勢崎製作所(現在のスバルカスタマイズ工房)で行っていたバス車体架装事業を終了する決定をした。このため、バス車体架装事業は日産ディーゼルとごく少数のいすゞ自動車を最後に2003年3月で終えた(最終生産車は東濃鉄道に納入された日産ディーゼル大型観光バス)。アフターサービスはスバルカスタマイズ工房(富士重工の子会社、西工製車体のメンテも行う)にて行っている。またボルボ社のシャシーを輸入し、アステローペシリーズと連節バスを製造していたが、これらも2000年に生産が終了した。

詳細は「スバルカスタマイズ工房」を参照


鉄道車両事業

東武9000系電車の車内銘板
東武9000系電車の車内銘板

1950年頃から主に客車気動車を旧国鉄JR私鉄第三セクター向けに、また、群馬・栃木に路線を持つ東武鉄道向けには電車を生産していたが、生産両数の低下により2002年5月に事業存続は困難と判断し、宇都宮車両工場(現在のエコ宇都宮工場)で行っていた鉄道車両事業を終える決定をした。なお最後に製造された電車は東武30000系電車(第6編成の4両)と気動車はJR北海道キハ261系気動車である。2003年2月新潟トランシス新潟事業所(新潟県北蒲原郡聖籠町)へ事業譲渡。JR四国2000系気動車などの振り子式気動車はすべて富士重工製。 最終製造車両は地元を走る真岡鐵道モオカ14型一般型気動車(2両)となった。

なお、先述の伊勢崎事業所でも、東京都電2500形(軌間1067mmの杉並線専用車で、足回りは戦前の車両のものを利用。杉並線廃止後は車体のみ荒川線で再利用された)を製造していた。

生産された鉄道車両

気動車

電車

客車

貨車
  • 私有貨車の一部の車両等
    • タキ2800形(苛性ソーダ専用タンク車)
    • タキ5450形(液化塩素専用タンク車)
    • タキ9800形(石油類専用タンク車)
    • タキ12200形(セメント類専用タンク車)
    • タキ18600形(液化アンモニア専用タンク車)
    • タキ45000形(石油類専用タンク車)
    • ホキ10000形(石炭専用ホッパ車)

軌道モーターカー
  • TMC300

スノーボード・自転車・望遠鏡

1998年には、宇宙関連機器及び航空機部門の技術を使って、ハニカム構造オールカーボンのスノーボード「VTOL」が少数販売された。尚、販売はインターネットのみ50枚限定で販売された。スバルが作ったスノーボードとして、一部のマニアには、知られた存在である。スバルと名乗らず別ブランドで販売された。現在は販売されておらず、貴重な製品である。

2008年12月には、99台限定で自転車(クロスバイク)「SUBARU XB」が発売された。価格は36万円。 マウンテンバイクに軽量大口径ホイールを装着して、オンロードでの走行性能を向上させた自転車で、レガシィなど富士重工の車と同様、オンロードとオフロード双方の走破性を合わせもつ自転車として「クロスバイク」と呼称している。

SUBARU XB

2009年12月には、屈折式天体望遠鏡「SUBARUメローぺ80A」を発売した。外部の専門メーカーと富士重内部の開発チームの共作で、スバルブランドをイメージさせるブルーで塗装されているが、車の色とはやや異なり、車のボディに比べて曲率が大きい望遠鏡の鏡筒を仕上げるために専用塗料を採用している。現在このクラスの望遠鏡は、大部分が中国製だが光学系の製作や検査をすべて日本のメーカーが行っているのが特徴となっている。「メローペ」はプレアデス星団の最も下にある星の名称。

SUBARU メローペ80A

キャッチフレーズ

  • 確かな技術を人のために(1990年代前半)
  • Driving Emotion(1990年後半~2002年)
  • 「Think.Feel.Drive」(2003年~2008年2月)
  • Fantastic moments→Fantastic moments with SUBARUページ (2008年3月~)

提供している主な番組

現在

日本テレビ

フジテレビ

TBS

テレビ東京

過去

関連項目

ウィキメディア・コモンズ

脚注

[ヘルプ]
{{#tag:references||group=}}

外部リンク

富士重工業

こんなキーワードで検索されてます