ラバウル航空隊についての最新情報、関連する画像や動画を紹介。(出典:Wikipedia)
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ラバウル航空隊(ラバウルこうくうたい)とは太平洋戦争(大東亜戦争)当時、ニューブリテン島のラバウル基地に集結しこの空域に展開して戦った海軍・陸軍の戦闘・爆撃・偵察・水上・各航空隊の総称である。各航空隊は本部をラバウルに置き作戦に呼応してニューギニアとソロモン方面の各基地を移動転戦した。日本海軍航空隊は前半は第21・26航空戦隊、後半は第22・25・26航空戦隊を主力とした。ガダルカナル攻防戦以降多数の航空隊が参戦したが、1943年後半以降については、いわゆるラバウル海軍航空隊とは主に二〇一空、二〇四空、二五三空、七〇一空を指す。
目次 |
概要
ラバウル航空隊は基地航空隊としてまずポートモレスビー方面に進出した連合軍航空隊と戦闘を繰り広げ、練度高く比較的平穏な大戦初期には損害率15対1という圧倒的な勝利を報告した。しかし、南部ソロモン方面で開始したガダルカナル島をめぐる陸海の熾烈な戦いでは基地航空隊は航空消耗戦に突入し、攻撃機隊は往復2000kmの長距離飛行の進攻作戦を強いられ、被弾に弱い機体と激しい疲労で、貴重な熟練搭乗員と機体を多数失いつつ連合軍に敗退した。
1943年に入り連合軍に米英新型航空機が順次登場し攻防が激化する中、6月末からは中部ソロモン、ニューギニアの両方面で連合軍の本格反攻が開始され、海軍・陸軍は補給力減衰し順次後退した。
10月から激化した連合軍の空襲により空前の大規模邀撃戦が開始され、ラバウルは戦闘機隊を中心とする邀撃基地となった。1944年1月を過ぎて弱体化がはじまり、1月初めに201空が消耗し再建、続いて1月末には204空幹部が後退。2月17、18日にはトラック島が空襲(トラック島空襲)されて再建中の204空が壊滅したため、2月20日253空の大部分とラバウルに進出していた第二航空戦隊がトラック島に撤収。日本軍は南太平洋方面への補給線維持が困難になると共に、戦力としてのラバウル航空隊は事実上消滅した。
歴史
ニューブリテン島ラバウルは連合国軍からはラバウル要塞と呼ばれており、対米海軍・米海兵隊・英領ニュージーランド空軍のソロモン方面と対米陸軍・英領豪州軍の東ニューギニア方面の2方面に対する攻撃・防御および補給の起点の役割を果たしていた。昭和17年後半から18年末までニューブリテン島上空の航空戦では、日本側は海軍・陸軍の主力戦闘機、偵察機、艦爆機、陸攻がラバウル航空戦に参加しつづけた。対する連合軍側もあらゆる新型戦闘機、艦爆、爆撃機を投入したことが知られている。
太平洋方面・開戦まで
- (1941年12月8日 南雲機動部隊、ハワイ奇襲、日米開戦)
- (1941年12月8日 台湾基地海軍航空隊の比島渡洋攻撃、在フィリピン米空軍を掃討)
- (1941年12月10日 中攻隊:美幌空・元山空・鹿屋空、マレー沖海戦で英戦艦を撃沈)
ラバウル航空隊の誕生
- 1942年1月20-22日 南雲機動部隊、ラバウル空襲・制圧[1]
- 1942年 1月25日 水上機部隊、ラバウル地区進出
- 1942年 1月31日 千歳空分遣隊の96戦、空母瑞鶴、翔鶴で空輸、ラバウル到着[2]。
- 飛行隊長兼司令は岡本晴年大尉、吉野二飛曹、西澤二飛曹、石川二飛曹たち。未だ整備員不在で搭乗員のみ先着、分隊長河合大尉たちが出迎える[3]。
- 1942年 2月10日 千歳空、4空に編入され、陣容改め発足(森玉司令、宮崎飛行長、岡本飛行隊長)
- 1942年 2月20日 4空中攻隊、ラバウル攻撃米機動部隊の接近を察知し雷撃で反撃[4]
緒戦期
- 約1週間に一度、連合軍航空機 10 数機との航空戦
- 1942年 2月24日 ニューギニア島東南部、ポートモレスビー基地攻撃始まる
- 1942年 3月31日 原田機96陸攻乗組員一同、モレスビー基地陣地へ自爆命令で特攻「3月31日 付近天候晴れ」[5]
- 1942年 4月 台南空ラバウル着任(斉藤司令、中島正飛行隊長)、4空の戦闘機隊は台南空に編入[6]
- 1942年 5月 3日 横浜空飛行艇隊、ガダルカナル島ルンガ泊地北東対岸に位置するフロリダ島南端小島のツラギに進出
- (1942年5月8日 珊瑚海海戦)
- 1942年 5月 7日 珊瑚海海戦にニューギニア・ラエ戦闘機隊とラバウル攻撃機隊が地上基地から協同作戦で空母艦隊を求めて発進し、別動隊(巡洋艦)を発見攻撃
- 1942年 5月末 第1空先遣隊(千歳空主隊からの転入者との混成)ラバウル着任(山下分隊長)、以後数ヶ月間、数次にわたり着任[7]
- 1942年 7月末 ニューギニア島東南・ラエ基地戦闘機隊は連合軍側空襲激化のため一旦撤収、ラバウルへ帰還[8]
中攻 1942 春
ラバウルの第4航空隊 中型陸上攻撃機部隊(中攻)指揮所には、ポートモレスビー飛行場を1942年3月30日に低空撮影した強行偵察写真が引き伸ばし現像され貼ってあった。4空陸攻隊搭乗員たちはその写真を見ていた[9][10]。
撮影した機の彼らは日米開戦前夜、台湾の第11航空艦隊に属する第1航空隊の中攻部隊にいた。航空艦隊参謀長から開戦前の訓示があり「被弾しても自爆せずに不時着し日本陸軍の進攻してくるのを待って脱出せよ」と指示された。彼らの機は日米開戦5日目のフィリピン、ルソン島空襲を悪天候のため超低空 350m で行い至近距離からの対空砲火に被弾し、帰途不時着した。一時は原住民に捕縛され在フィリピン米軍に監禁されたがそろって脱出して日本陸軍に合流、1ヶ月後にフィリピンに進出して来た本隊に1機8名全員揃って帰隊し隊の皆も歓喜した。しかし航空艦隊は彼らをすでに戦死と報告しており、経過を問題にし、内密に処分した。彼ら8名はその後死ぬまで数ヶ月間、飛行特技章、金鵄勲章、階級章は剥奪され、下士官だった者も一目で違いのわかる兵の服装を着用し、階級章のないまま滑走路外れのテントに起居を命じられた。[11] [12] 。
1942年2月20日、ラバウル基地では進出まもなくの第4航空隊 中攻隊がラバウル東方面から接近した大型空母レキシントンを中核とするアメリカ機動部隊を迎え撃ち、飛行隊長 伊藤少佐搭乗の中川大尉指揮官機、瀬戸大尉の第2中隊長機を含む9機自爆、ベテラン搭乗員多数を一挙に失う最初の大損害を被った。このため第1航空隊は、2月23日[13]に第11航空艦隊麾下のラバウル基地に増援に来た。1942年3月30日、彼ら8名はポートモレスビー飛行場の単機低空強行偵察写真撮影を命じられた。高度 1,000m で低速で数往復し写真撮影したが戦闘機に迎撃されず被弾し生還した。翌日1942年3月31日、単機により飛行場爆撃しその後に対空陣地へ突入自爆決行せよ、との命令を受けた。爆撃成功連絡の後、突入決行の暗号電文をラバウルで受信した。終了符のト・ト・ト・ツーの長符発信がながく数十秒続いたあと突然途絶えたので戦果確認機はなかったがその時刻に死んだと判った。彼らは通常の戦死として元の階級に復された上で1階級昇進。航空艦隊参謀長は3月付の定期異動で日本国内に転勤し、第1航空隊は4月10日付で後退、本隊は日本本土の木更津で再建に入った。[14] 1942年夏のガダルカナル争奪戦開始に呼応して第11航空艦隊司令部は内南洋・北マリアナ諸島のテニアン島からラバウル基地に進出した。
東部ニューギニア・ソロモン戦線で、陸上攻撃機の搭乗員たちは落下傘を携帯しなかった。被弾発火炎上し帰還望み尽きたときは、いさぎよく全員一緒に敵陣へ突入し、海中へ突入した。機を捨てて最期まで粘り強く生還しようとはしなかった[15]。
連合軍反攻開始
- ソロモン海、中攻隊の死闘期
- 数日に一度以上、連合軍航空機 20機-50機との航空戦
- 1942年 8月初め、日本海軍の設営隊はガダルカナル島の東北沿岸、ルンガ川とテナル川の間の平地に建設していた飛行場をほぼ完成した。滑走路全長 1200 m 、幅 50 m 、珊瑚砂の美しいセメント舗装であと残り 60 m の状態だった。滑走路は大型機用で、日本本土の横須賀鎮守府、日本海軍空技廠実験部をもつ横空にあった追浜飛行場と滑走路全長はほぼ同じだった。南東方面島嶼への輸送手段を持っていた日本海軍は、建設工事用土木機械・資材をガダルカナル島に持ち込んで建設に使用した。スチームローラー5台、トラクター2台、舗装用の大量のセメントが、このあと上陸してきた米軍の接収リストに記入されている。[16]
- 1942年 8月5日~6日の両日、浜空飛行艇隊哨戒担当の3機、毎日1時間の哨戒任務で丁寧な海上哨戒せず雲上を飛び、スコール雲下を航行中の低速な大船団を見逃した。[17]。
- ガダルカナル上陸作戦の船団編成は、19隻の輸送船と4隻の輸送駆逐艦に分乗した19,000名の上陸部隊を、3隻の航空母艦を含む護衛艦隊が護る大船団、米軍上層部はこの計画は無謀で成功の見込みは薄いと考えていた[18]
- 1942年 8月 7日 米大船団によるガダルカナル上陸作戦奇襲に成功。この日ガダルカナルの戦い始まる。
- 1942年 8月 7日 ツラギの浜空、早朝から攻撃され飛行艇全滅。以後48時間耐え島半分を死守したが翌日島の背後に回った米駆逐艦から艦砲射撃うけ全滅
- 1942年 8月 7日 ラバウル航空隊はガダルカナル制空権の継続確保のため、中攻を攻撃主力とするガダルカナル攻撃航空作戦開始[19]
- (8月8日夜 第一次ソロモン海戦 日本側戦術的勝利、戦略的敗北)
- 1942年 8月 台南空、ラバウル任務継続(斉藤司令、中島飛行隊長)
- 1942年 8月 7日 2空、艦爆隊と戦闘機隊ラバウル着任(山本栄司令、八木飛行長、隊長代理井上大尉(艦爆)、倉兼分隊長)高速で航続距離短い零戦32型装備。2空の艦爆隊と戦闘機隊は、日本出発時はニッケル産地のニューカレドニア島へ着任予定。艦爆隊はラバウル到着翌日8日のガダルカナル戦に参加し過半数が撃墜された[20]
- 1942年 8月21日 6空、ラバウル着任(森田司令、小福田飛行隊長)[21]
- 1942年 8月22日 2空と台南空一部、ニューギニア島の東南・ブナ、ラエ基地に進出、モレスビー攻撃[23]
- (1942年 8月31日 伊号第26潜水艦は珊瑚海で米機動部隊を雷撃し、サラトガ大破)
- 1942年 9月上旬 2空(零戦32型装備)、8月末完成したブーゲンビル島北端ブカ基地に前進(山本司令)[24]
- 1942年 9月 ブーゲンビル島南端ブイン基地完成(米呼称:カヒリ)、2空(零戦32型)のガダルカナル制空戦支障解決[25]
- 1942年 9月 3空、ラバウル着任(梅谷司令、榊原飛行長、相生飛行隊長)[26]
- 1942年 9月 鹿屋空戦闘機隊、中攻隊とともにラバウル着任(小林司令、伊藤飛行隊長)[27]
- 1942年 9月12日 日本陸軍のガダルカナル第一回総攻撃の予定日(当初)にあわせ、ラバウルから陸上攻撃機25機、戦闘機隊15機(2空、倉兼大尉指揮[28])はガダルカナル攻撃し、日本海軍側は米軍機11機を撃墜し日本側の陸上攻撃機3機の自爆を報告。同日、米軍側は日本軍爆撃機10機と零戦3機とを撃墜と報告、戦功によりスミス大尉は少佐に昇進 [29] 。あるいはこの直掩零戦隊15機を台南空零戦隊とし [30] 、米軍側の戦闘機17機と交戦、日本海軍側は米軍戦闘機13機を撃墜し20機を地上破壊し、日本海軍側の陸上攻撃機の自爆2機、未帰還2機を報告した、とする。
- (9月12日夜~13日夜 日本陸軍、川口部隊は行軍困難のため1日遅れで第一回総攻撃し、14日に撤退。13日夜の戦闘で、中央の田村第2大隊(仙台青葉支隊)の3個中隊(第5、第6、第7)は射撃なしで突進、左の第5中隊は左翼の渡辺第3大隊とともに米海兵隊3000人中核陣地正面で激戦。右の第7中隊は右翼の国生大隊進撃後を右方向へ横断し進み高射砲陣地を爆破し飛行場東方でテナル川左岸の海兵隊陣地背後の木造倉庫を占拠。中央の第6中隊は米海兵隊守備陣の中央を抜け海兵隊幕舎数軒を倒し食料奪い飛行場を横断し高射砲陣地爆破し海岸線の湿地帯手前へ進出、翌14日朝は左に旋回反転しつつ死傷者を収容し飛行場西方でルンガ川右岸の海兵隊中核陣地のある「エドソン丘背後の中間~飛行場の滑走路西端区域」を占拠。生存の一木集成大隊は14日朝までにエドソン丘東方の要点「むかで高地」を奪取し撤退命令まで守備。14日に第6、第7中隊は連絡をとりそれぞれ米海兵隊陣郭の内部に陣を構築、15日まで2日間、日本軍の再攻撃を待ったあと食料・水不足で断念、15日夜に日本軍陣地へ帰着。 [31])
- 9月13日 昼、陸軍との連絡参謀の田中海軍少佐はガダルカナル飛行場へ飛来し、駐機している約40機の戦闘機をみて、着陸中止して帰る。
- 9月14日 昼、ラバウルの海軍航空隊 陸攻隊27機、直掩の零戦11機(2空、倉兼大尉指揮)はガダルカナル飛行場西側から進入して爆撃、零戦隊は10機撃墜を報告 [32] [33] 。
- 9月14日 午後、ラバウル東飛行場では修理機引火事故が大爆発を引き起こし弾薬、燃料を大量に喪失。吹き上がる黒煙はラバウル湾東側の火山群を覆い、セントジョージ岬上空からも見え、夜半まで爆発炎上が続いた。[34]
- (9月15日 日本海軍の伊号第19潜水艦は、ソロモン南東海域で雷撃し米海軍航空母艦ワスプを撃沈、戦艦ノース・カロライナを大破。連合軍側の『9月危機』)
- (9月18日 米海兵隊第7連隊 4,200名あまりガダルカナルに到着、米側は上陸以来ずっと悩まされていた弾薬・糧食の不足を解消でき、戦力は著しく充実)[35]
- (9月末 米海兵隊航空機迎撃体制確立、常時60機の作戦使用が可能になり、基地の専守防衛から島内の日本陸軍を航空機で撃滅する積極策に転換)[36]
- (10月初旬 駆逐艦による数次の陸軍部隊輸送成功、第十七軍百武司令官ガダルカナルへ進出)
- (10月11日 サボ島沖海戦、日本側は古鷹・吹雪爆沈の被害を受けるが、ガダルカナル島に対する日進・千歳による重火器陸揚げに成功)
- (10月中旬 1航戦、2航戦、ラバウル近海進出)[37]
- (10月13日 戦艦金剛・榛名、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を猛砲撃で破壊
連合軍、ガダルカナル戦優勢へ
- ソロモン海、陸海空の死闘つづく
- 1942年11月 台南空消耗、本土帰還命令により零戦機材を残し輸送船で内地へ戻り豊橋基地で再建に入る[39]
- 1942年11月 3空、202空と改称し中部太平洋ケンダリーで練成(岡村基春司令、相生飛行隊長)[40]
- 1942年11月 2空、582空と改称してラバウルで任務継続(山本栄司令、井上隊長代理、倉兼分隊長)現地で編隊空戦訓練、飛行隊長はのちに進藤三郎飛行隊長になる[41]
- 1942年11月 6空、204空と改称してラバウルで任務継続(森田司令、小福田飛行隊長)[42]
- 1942年11月 鹿屋空、253空と改称してラバウルで任務継続(小林司令、真木飛行長)[43]
- 1942年11月 252空(旧元山空)、編隊空戦特訓してラバウル着任(柳村司令、菅波飛行隊長、武藤金義、宮崎勇ら)[44]
- 1942年11月14日、ガダルカナル島へ最後となる第2次強行輸送作戦実施。輸送船1隻に護衛駆逐艦1隻をつけ突入擱座を覚悟して高速大型輸送船11隻がガダルカナル島に突入[45]。早朝から米軍機8波のべ100機による攻撃に対し、日本側は零戦のべ32機、水上機のべ14機が上空直衛に当った。輸送船員達に見えた限りでは朝から船団上空を護って米軍機を迎え撃ってくれたのは水上機だけで、身軽な多数の米軍戦闘機に包囲され簡単に撃墜されながら1機1機次々と突っ込んでいったと伝える[46]。あるいは、同日同戦域で船団上空警戒にあたったのは基地航空隊および空母飛鷹の零戦隊であって、来襲したB-17および米空母機と空戦した、とする[47]
- 1942年12月 この時点で一式陸攻と中核主力、練達の中攻乗組員たちの大半を消耗、以後確実な決定力伴った難易度高い大作戦が困難になる(編隊攻撃による夜間雷撃)[48]
- 701空(美幌空)、702空(4空)、703空(千歳空)、705空(三沢空)、707空(木更津空)、752空(第1空)、753空、755空(元山空)の各中型陸上攻撃機部隊
- 1942年12月末 南部ソロモン・ガダルカナル島からの撤退決定(東京・御前会議にて)
- 1943年 1月末 陸攻夜間爆撃開始。海軍艦爆隊、昼間攻撃参加[49]
- 1943年 1月末 陸軍航空ラバウルに合流し昼間攻撃参加、機材は一式戦キ43、二式複戦キ45改(夜間)、爆撃、偵察キ46、後に三式戦キ61参戦。[50]
- 陸海軍に有名な1943年春の三式戦キ61大編隊、トラックからの移動中多数機損失の大事故は、キ61が試作審査開始1年経過し液冷エンジン周りのトラブル頻発するなかでの強行出撃という中、発生した。ラバウル陸軍司令部では、液冷エンジントラブルで一旦基地に戻り離陸やり直したため誘導機に合流できず単発機編隊で偏流修正せずに洋上を進んだため進路が左にそれてほとんどが燃料切れでブーゲンビル島東海岸に辛うじて不時着した、とした[51]、あるいは通り過ぎニューギニア島東岸のラエにまで飛んでいった機[52]、 あるいはスパイ工作員による隊長機コンパスの狂いを疑う伝聞の噂が流布された[53]、あるいは複数機が燃料不足で洋上不時着した(洋上に着水し機から脱出した搭乗員が鱶に食われた)と伝えられた。この燃料不足については、設計製造の川崎飛行機の調査により、逆止弁すり合わせ工作精度が悪く翼の負圧側に開口していた空気抜きの孔から燃料が漏れた(吸いだされた)ための燃料不足であると判明。全く申しわけないミスと陳謝した[54]。
- 1943年 2月初 南部ソロモン・ガダルカナル島から撤退完了[55]
戦いの潮目変化
- 数日に一度以上、連合軍航空機 50機-80機との航空戦
- 1943年 2月 戦闘機隊 201空・204空・582空、ブーゲンビル島南端ブイン基地に進出
- 以後、制空戦と中部ソロモンへの輸送船団上空直掩任務[56]
- 1943年 3月 3日 陸軍輸送「81号作戦」(ダンピール海峡の悲劇)上空直掩[57]
- ニューギニア東南ラエへの輸送作戦。米軍機に補足され輸送船団壊滅。以後このニューギニア島東~ニューブリテン島間の海域の制海権を失い、潜水艦か大発による夜間小規模輸送になった。
- X作戦でソロモン方面、Y作戦でニューギニアのポートモレスビー方面、Y1作戦でニューギニアの南東端ラビ方面を攻撃[58]
- 1943年 4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官ブイン近くで搭乗機を撃墜され戦死(海軍甲事件)[59]
- 1943年 5月14日 251空(元 台南空)ラバウル再進出(小園司令、中島飛行長、向井飛行隊長)[60]
- 1943年 6月16日 ガダルカナル島ルンガ泊沖航空戦[61]
- 以後、南部ソロモン制空権を喪失
連合軍全軍、東京へ進軍開始
- 本格的反攻
- 1943年 6月30日 中部ソロモン・レンドバ島に米軍上陸
- 6月30日、ニューギニア島危機、東南・サラモア攻略作戦開始、連合軍陽動作戦で南のナッソウ湾上陸[62]
- 1943年 7月上旬 レンドバへの陸軍爆撃機隊と海軍戦闘機隊協同作戦が2回実施される。攻撃で与えた在地連合軍ダメージ大きく効果あったが2回で中止になり海軍戦闘機搭乗員側に不満が残った。[63]
- 1943年 7月15日 201空、ラバウル着任(中野司令、小松飛行長、河合飛行隊長)[64]
- 1943年 7月中旬 2航戦全機、ラバウル経由でブインへ進出[65]
- 1943年 7月中旬 ラバウル陸軍航空、ニューギニア攻防・反撃のため両面作戦に入る。
- 陸軍14航空(68戦隊、78戦隊、司令部戦隊数機、爆撃部隊)ウエワクとの間を移動・往来以後、ニューギニア島東南部および海峡を越えたニューブリテン島南西のツルブ、マーカス岬の両方面を担当し1943年12月にも68戦隊は爆撃隊とともに海峡を越えマーカス岬防衛戦闘へ出動継続[66]
- ( 8月、ニューギニア島危機、東南・サラモア陥落)
- ( 8月16日~17日 ニューギニア島中央の陸軍14航空ウエワク基地が連合軍奇襲うけ100機地上破壊される。一時期作戦続行困難に陥り、以後完全守勢となる)
- 1943年 9月 1日 251空は消耗により解散し、搭乗員は201空と253空へ転属[67]
- 1943年 9月中旬 中部ソロモン・ニュージョージア島ムンダ基地放棄
- 9月、ニューギニア島危機、東南・ラエ陥落、地上軍は死のサラワケット越えでキアリへ脱出
- ( 10月~翌年1月まで、ニューギニア島危機、東端・フィンシュハーフェン戦継続)
- 1943年10月 北部ソロモン・ブーゲンビル島南端ブイン基地放棄脱出、ラバウル帰還命令[68]
- 1943年10月27日 ブーゲンビル島南端938空水上基地に隣接するモノ島を米軍占領[69]
- 1943年11月 1日 日本海軍、「ろ号作戦」発動
- 1943年11月 1日-13日 ろ号作戦中1航戦ラバウルに進出、作戦終了時半数を消耗し一部を残し引上げ[70]
- 1943年11月 1日 米軍、ブーゲンビル島中部西海岸へ上陸、タロキナ飛行場建設開始
- 1943年11月 5日 ブーゲンビル島南端ショートランド水上機基地人員は徒歩で北端ブカへ退却[71]
- 1943年11月 8日夜、日本陸軍第十七軍(主力第六師団)、タロキナ第一回目地上総攻撃
- ( 第一次~第六次ブーゲンビル島沖航空戦、1航戦の大半は第三次まで参加)[72]
ラバウル大航空戦
- 1943年11月-1944年2月20日 連日連合軍航空機 100機-300機との戦闘
- 1943年末、この時期のラバウル司令部は焦燥の色濃く、数ヶ月前にもっていた快活さを失ってしまった[73]
- 201空・204空・253空による邀撃戦、連日数百機の戦爆連合が押し寄せ、1月~2月は一日数波、激化[74]
- 1943年11月14日 218空分遣隊ラバウル着任、201空へ編入[75]
- 1943年12月15日 201空消耗により幹部後退決定、残存201空搭乗員の大半は204空へ転属[76]
- 1943年12月15日 ニューブリテン島西南端グロスター岬に連合軍上陸、ラバウル海軍戦闘機爆撃攻撃[77]
- 1943年12月21日 陸軍68戦隊キ61 三式戦と軽爆の戦爆連合ウエワクから海峡を渡りマーカス岬(米呼称:アラウエ)攻撃[78]
- 1943年12月20日 ブーゲンビル島北端のブカ水上基地隊、駆逐艦でラバウル湾東南岸の松島基地へ後退[79]
- 1943年12月23日-27日 ニューブリテン島南端ガスマタへ連合軍上陸、戦闘機による爆撃攻撃
- 1944年 1月17日 ラバウル上空邀撃戦で圧勝、翌日東京で上奏、御嘉賞される。[80]
- 内地から日映ニュース班来訪し連合軍/日本軍に唯一存在するラバウル空戦の実写フィルム「南海決戦場」邀撃戦 69対0 を撮影[81]
- 1944年 1月24日 204空消耗により幹部トラック島へ後退、生存204空搭乗員の大半は253空へ転属[82]
- 1944年 1月25日 ラバウル南東方面 草鹿司令長官の要請で第2航戦ラバウル着任、1ヶ月後1/3に消耗[83]
- (ブーゲンビル島-ラバウル間洋上のグリーン諸島を連合軍上陸占領)
- 1944年 2月12日 夜8時、国籍不明の艦船数隻による官邸山の陸軍司令部砲撃[84]
- 1944年 2月14日 深夜、国籍不明の艦船数隻によるココポ海岸砲撃[85]
- 1944年 2月16日 夜間、国籍不明の艦船数隻によるココポ海岸砲撃(トラック攻撃陽動作戦)[86]
- 1944年 2月17日-18日 トラック島全島、米機動部隊の奇襲、大空襲をうける。ラバウル向け補給用200機地上破壊され、航空機全滅。湾内の艦船沈没多数。[87]
- 1944年 2月20日 253空と第2航艦の全機(戦闘機約30機・陸攻数機)トラック島へ後退[88]
- 253空(福田司令、岡本晴年飛行長)
- 第2航戦(城島司令官、隼鷹:日高飛行隊長、飛鷹:小林飛行隊長)
- ラバウル航空決戦 1944
1943年晩秋まで続いたラバウルからの航空進攻作戦は、11月にブーゲンビル島西岸のトロキナに連合軍の大航空基地が建設されてからはラバウルを中心とする南東方面制空権争奪戦に変わり、1943年12月17日0900 から1944年2月末まで2ヶ月間休みなく続く、日本航空作戦史上に「ラバウル航空決戦」として伝えられるラバウル零戦隊の烈しい邀撃戦闘が始まった。 [89] [90]
1944年1月にはラバウルへの空襲は熾烈さを増し、連合軍各方面の陸上基地航空隊から、ときに米海軍機動部隊艦載機も加わり、戦闘機150機以上を含む200機~260機の戦闘機、単発爆撃機、大型爆撃機合同による大規模空襲が毎日繰り返された。
日本側はセント・ジョージ岬レーダー基地からの警報により敵来襲を30分前に事前予測し、第26航空戦隊所属の数十機のラバウル零戦隊全機は一斉離陸を5分で完了、高々度で待機して邀撃し、来襲する連合軍戦爆連合大編隊との間に大空中戦が展開された。[91]
邀撃する零戦隊は、来襲する護衛戦闘機陣をかわして爆撃機編隊先頭に突進、攻撃して編隊を小さく分散させた後で、周囲から執拗な攻撃を繰り返した。これに対し連合軍各国の混成航空隊(米軍の陸・海・海兵隊所属の各航空隊、英連邦豪州空軍、英連邦ニュージーランド州空軍)は直掩戦闘機隊と爆撃隊の緊密な十字砲火による協同連携防御でこれを阻止した。ラバウル在地の陸海軍高射砲陣からの烈しい対空射撃で空一面は弾幕で覆われた。彼我ともに知略を尽くす緊迫した連日の空中戦闘で、零戦隊の戦果は少ない日は6機、多い日は87機、平均で20数機以上であった。戦後の戦史研究者らに数の重複を指摘されることはあっても、実際に来襲する大編隊に毎回大きな損害を与えていたし[92]、ラバウル守備隊は毎週、連合軍側生存搭乗員を多く捕虜にしていた。地上基地員たちも爆撃終了後は人力に加えラバウルのトベラに持ち込んだスチームエンジンローラー、英軍鹵獲ブルドーザも整地に使い滑走路を速やかに修復、復旧させた。
ラバウル航空戦の激戦の現実を証明するニュース動画映像(1944年1月17日付)が1本、日本側にあり、当日最大の戦闘は飛行場の真上遥か高空で大型4発機大編隊に第4中隊の零戦数機がとりつき一撃でB-24が2機続けて炎上し落ちた。この事実は戦後の戦史研究家らの調査にはないが、当日日本側の先頭で離陸し第1中隊指揮官として邀撃した戦闘機搭乗員の回想録には遺された。[93]
少数機で多数機に対抗することが極めて困難なことは、英国が発表した航空戦の戦略理論 N2乗法則(N square Low) [94] の示すとおりで、日本海軍航空隊によく知られていた。201空が1月4日にサイパンに後退したあと、邀撃する零戦隊はラバウル東飛行場の204空とトベラ飛行場の253空の2隊のみの状態にかかわらず、彼らラバウル零戦隊の搭乗員たちは、連日つづく一直配置の邀撃戦闘を歯を喰いしばり体力酷使の状態で戦いラバウルの制空権を確保していた。[95]。 1944年1月の苦難な状況下に、ラバウル零戦隊搭乗員たちが彼らの技術と生命をかけて戦ったことは、当時すでに旧くなってきた零戦の名機という名誉を保ってくれたと、零戦の育成に携わってきた海軍戦闘機隊関係者たちに感動を与えた。ラバウル初進出から最後まで戦った 253 空の岡本晴年飛行隊長は「零戦は1944年になってもまだ強かった」と回想証言した[96]。
1943年末当時のラバウルには日本海軍戦闘機隊関係の実力者たちが多数集結し隊員たちを支えていた。連合艦隊の機動部隊参謀長で南東方面艦隊(11航艦)参謀長の草鹿龍之介(海兵41期)と海軍戦闘機隊長老26航戦司令官の酒巻宗孝(海兵41期)。南東方面艦隊(11航艦)先任参謀の佐薙毅(海兵50期)、海軍航空の権威26航戦・253空司令の福田太郎(海兵50期)。零戦試作初試飛行の担当海軍士官で26航戦・201空司令の中野忠二郎(海兵51期)。実務部隊で空戦技術開発推進し、同期の源田実と零戦開発・設計仕様で熱心な議論を重ねた26航戦・204空司令の柴田武雄(海兵52期)。零戦の熟成と12空で実戦初導入を成功させた26航戦主務参謀の横山保(海兵59期)らがいた。
連合軍はラバウル攻略を意図して空襲による猛攻と、スルミ、グロスター岬へと上陸作戦を繰り返し、ラバウルに対する艦砲射撃も3度行われた[97]。 連合軍はラバウルへの本格攻略を回避、迂回して2月29日にアドミラルティ諸島に上陸、占領し米機動部隊北上作戦の拠点泊地を構築した。 また、2月17日の米機動部隊大空襲を受けたトラック島の壊滅的被害を補うため第11航空艦隊所属の全飛行隊はトラック島へ後退となり、2月20日ラバウル航空隊は実質的にその幕を閉じた。
連日の大空襲下にも零戦隊の奮戦により外観を維持していたラバウル市街は、零戦隊がトラック島基地に後退して10日以内に、市街に多くあった建物、広いアスファルト舗装の美しい椰子の並木道、熱帯植物園はすべて灰になった。
- ラバウル邀撃戦の戦訓
ラバウル26航空戦隊の邀撃戦では、緊急発進した零戦は中隊長、小隊長、列機区別なく、先に飛び上がったものを中心に次々と編隊を組み、集結していった。これは、1943年秋『ろ』号作戦でラバウルに進出した一航戦戦闘機隊の邀撃戦で示された『一斉離陸』が範となり戦訓となった [98] [99]。
空中戦では敵機より優位をとる必要があり、緊急の邀撃戦では素早く離陸した者が戦果を上げやすいため、一斉離陸をし、その様子は先陣争いだった。後に離陸した者が列機となり編隊につく。顔がわからなくても互いによろしく、と編隊を組んだ最初に風防ごしに挨拶しておけばよく、階級の上下など後からとやかく言う者はいなかった[100]。狭いトベラ基地に移ってからの邀撃戦では列線にならぶ零戦の近くで待機し早めに離陸した[101]。若年搭乗員たちは目をつけた実力者、慕う者の後にすばやくついた[102]。邀撃戦の編成表[103]は後で作成された。
「ろ」号作戦でラバウルにきた一航艦の戦闘機隊は、撃墜マークも桜の花や星マーク、思い思いに記しており[104]、204空でも機体個体の撃墜記録として、前任者の記録に自らの戦果を追加記入してもらい[105]、気持ちを高めていた。
26航戦・戦闘機隊では後の、マリアナ沖海戦「あ」号作戦の準備段階となる1944年前半の戦いで、ラバウルのこの貴重な戦訓が徹底されなかった。内地から参入した決戦部隊の零戦隊は戦闘経験がなく空中集合で失敗した。離陸後、決まった小隊長でなければ編隊を組もうとせず低い高度を捜し回りつづけ、来襲した米機動部隊戦闘機隊の優位からの一撃を浴び大敗した。
- 搭乗員気質、物静かな者達
26航戦参謀の横山保はトラック基地へ転勤する前夜の1944年1月25日、ラバウルに残って戦う204空戦闘機隊搭乗員たちの宿舎を訪ね別れを告げた。[106] その晩見た彼の部下たち、ラバウル零戦隊の搭乗員たちは、その心意気は沈んでいなかったが、連日の激戦と活躍にかかわらず来襲機数が全く減らないため、疲労の色は濃かった。彼ら戦闘機搭乗員たちはいつもは物静かで心の優しい性格の者たちが多く、肩をいからし大言壮語する者は一人もいなかった。けれども圧倒的な数で来襲する連合軍との邀撃戦闘がはじまればいつも、恐怖心をのり越え戦果をあげていた。 [107] [108] [109]
彼ら搭乗員たちの当時の思いを示す詩のような言葉が伝わっている。
- 戦局はすでに敗色濃いといえども、我らは今はただ武人として卑怯者になりたくはないと願う。
- ここは何百人の戦友たちが空に散ったラバウル航空隊だ。
- 先に逝った戦友たちが我らに遺したのはラバウル魂だった。
- ラバウル航空隊には尊い伝統があり誇りがある。我ら搭乗員はその誇りのために戦う。
- 我らは戦死する運命に従う。だれか生残りに望みをかける者がいようか。
激戦中の布石:連合軍ラバウル迂回方針
連合軍空軍力の全力による1943年12月17日から3ヶ月のラバウルへの空襲総攻撃は、海軍のリア少将の上申をうけた米海軍第3艦隊司令官ハルゼー中将から米陸軍の南西太平洋方面の連合国最高司令官マッカーサー将軍の全面的協力をえて連日激戦がくりかえされていた[110]。
他方、ちょうどこれに重なる時期、1944年に入り米陸海軍内部では太平洋方面作戦でラバウルの迂回方針が検討された。1943年11月の米海兵隊ブーゲンビル島タロキナ上陸直後の危機的状況は米空母2隻(サラトガ、プリンストン)と基地航空隊協同のラバウル強襲により無事回避したが、ハルゼーはこのあと1943年12月23日から26日までハワイでニミッツと打ち合わせ、アメリカ西海岸カリフォルニアの自宅で家族に会ったあと、1944年年明け~1月末まで米国政府のあるアメリカ東海岸のワシントンに滞在し、米海軍最高指揮官のキング海軍大将(合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長)に「ラバウルとカビエンの占領は不要」と自説を上申した。それは、ラバウルの真東の洋上にありセント・ジョージ岬~ブーゲンビル島の間をラバウルから北東へぬける海路を中央で阻むグリーン諸島(Green islands)、ラバウルの北隣ニューアイルランド島カビエンの北側を洋上で阻むセント・マシアス群島(St. Matthias Group)の南東小島のエミラウ島(Emirau island)、ラバウルの西方洋上に位置しラバウルからトラック島への北西海路をエミラウ島との間で挟むアドミラルティ諸島(Admiralty islands)のマヌス島(Manus island)を占領しラバウルを包囲遮断すれば南太平洋方面での日本軍の作戦は成立しなくなる、という予測を説明した。[111]
1月末、ハルゼーはこの方針に米海軍のニミッツ大将(中部太平洋方面の連合国最高司令官)と米陸軍のマッカーサー将軍(南西太平洋方面の連合国最高司令官、元大将)の了解をえるため、ニミッツのいるハワイ真珠湾へ向かい会議に参加した。真珠湾での米陸海軍司令部幕僚、参謀が集合した作戦会議では、この方針に基づき、当時攻略中のグリーン島を1944年2月19日に占領、マヌス島は1944年2月29日から攻略する日程が決定された。米陸軍マッカーサー司令部側はカビエンの1944年4月1日攻略計画を主張した。3月には、米陸軍所轄の攻撃目標だったマヌス島までも米海軍が占領した。マヌス島には東端から北側を巨大な弓状に湾曲して伸び囲むロスネグロス島が天然の良港を形成し大艦隊を収容できるロレンゴー湾があって、米海軍は根拠地としてアドミラルティ泊地を構築した。これに対し豪州オーストラリアのブリスベーンに滞在して指揮していた米陸軍のマッカーサーは強く憤ったため、ブリスベーンで双方の和解と調整が図られた。カビエン攻略は3月14日に中止決定されその北のエミラウ島が代わりの攻略目標になった。[112][113]
ラバウル迂回以降の対日作戦の攻撃方針は、ウルシー環礁、フィリピンを基地として硫黄島、沖縄、日本本州を攻撃する方針にはなっていたが、1944年5月のサンフランシスコでの作戦会議では、米海軍最高指揮官のキングはフィリピンを攻撃で破壊しないように台湾攻略を主張、スプルーアンス中将は中国上海の南方上山湾攻略を主張、その他、最終段階の1945年春、九州攻撃までは様々な意見が出続け揺れた。この後の米海軍は新建造の大型高速空母を多数就役、訓練し実戦配備完了した大艦隊を擁し、1943年11月から1944年7月まではスプルーアンス中将の第5艦隊司令部が指揮してギルバート・マーシャル、サイパン、マリアナ群島を順次攻略し、そのあと1944年8月から1945年1月まではハルゼー中将の第3艦隊司令部がこの大艦隊の指揮を引き継ぎ台湾沖、レイテ、フィリピンを攻略していった。[114]
最後のラバウル航空隊
- 自活と、基地技術者と残存航空隊員たちによる復元機での偵察・拠点爆撃作戦
- (現地残存201空・204空・582空残留員で再編成)
- ブーゲンビル島南端旧ブイン基地に残留した第八艦隊司令部、第一根拠地隊司令部、佐世保鎮守府第六特別陸戦隊は水偵機をジャングルの隠れた入江・川に引き込み、隠密作戦続行[117]
- 1944年 3月8日~25日、日本陸軍第十七軍、タロキナ飛行場へ総攻撃。
- ラバウル航空隊、陸軍百武中将の要請に応じ爆装零戦によるタロキナ飛行場夜間爆撃を行い失敗。[118]
- ( 3月末、太平洋のパラオに米機動部隊来襲、海軍乙事件発生)
- 1944年 6月 新たにラバウルにて105空開隊、復元零戦で構成、アドミラルティ泊地偵察[119]
- ( 6月11日-12日、マリアナ諸島方面は米機動部隊の大空襲をうけて基地航空隊壊滅)
- ( 6月上旬、パラオ大空襲で、移動途中の海軍基地航空隊決戦部隊が大消耗)
- ( 6月19日、サイパン沖「あ号作戦」日米機動部隊決戦に日本側大敗)
- ( 7月初め、サイパン島陥落、以後テニアン、グアムと続いて陥落)
- 1944年10月 ラバウル陸軍独立飛行83中隊、復元100式司偵完成、トラック島へキニーネ受領往復[120]
- 1944年10月 105空、復元零戦でアドミラルティ泊地偵察再開
- 1944年10月-1945年8月まで、海軍105空零戦と陸軍独立飛行83中隊100式司偵、アドミラルティ泊地黎明偵察継続、海軍958空零式三座水偵は補給と偵察続行[121]
- フィリピン方面出動準備中の米艦隊動向を後方から隠密偵察活動、情報を内地へ報告
- 1944年年末 ブイン水上基地の938空解散、ブーゲンビル島内で第85警備隊になる。
- 1945年 ニューブリテン島島内前線拠点で地上戦続行中、小守備隊の玉砕相次ぐ
- 1945年4月28日 ラバウル、復元97式艦上攻撃機2機でアドミラルティ泊地夜間雷撃[122]
- 1945年 7月中旬 ブーゲンビル島南端旧ブイン基地員、復元零戦22型1機密林の中で完成[123]
- ( ソ連侵攻開始)
- 1945年 8月15日 終戦
- 敗戦により飛行可能状態の復元零戦21型と復元100式司令部偵察機は豪州軍に、ブインの復元零戦22型はニュージーランド空軍に接収された。
評価
昭和17年秋のガ島を巡る航空消耗戦を外山海軍少佐は「無意味な死闘」と呼んだ。貴重な熟練搭乗員を失わず温存することで日本軍は連合軍に対して史実より健闘できた可能性はあるが、連合軍側も戦術を変えた可能性がある。アメリカ軍でもラバウル航空隊の実力を高く評価しており、ニミッツ、キンケード、ハルゼーもその武名を恐れていた。とくに勇猛で名高いハルゼーも息子が米空母のラバウル空襲の際戦死するのではないか不安だったと戦後の回想録に書かれている。ラバウルでの戦死率の高さから、アメリカ軍搭乗員からはラバウルはドラゴンジョーズ(竜の顎)と恐れられた。これはラバウルの地形が竜の顎のような入り組んだ湾であることと同時に、侵攻すれば大損害を被ることを指している。
有名な『キング報告』(戦後の米政府宛て海軍作戦レポート)は戦後に日本要人に対する調査結果を総合して報告された。この中では米国側は大戦中は日本のことを熟知して作戦をすすめたように記述された[124]。
戦後に胸襟を開き直接対談した日米軍要人たちの回想レビューでは、「軍事作戦」として見て、大戦中は日本側も真珠湾攻撃の目標内容を含みそれ以後にも重要な判断ミスを重ねていたが、米国側にとっても熱帯多雨のソロモン戦線で有利だったのはレーダーしかなく、陰惨で前途の見込みが判断つかない精神的、肉体的に苦しい戦争で、太平洋戦線での各局面では情報収集と判断に非常に苦労していた。航空戦も峠をこえる時期までは機数・技量・性能も伯仲していたので、連合軍側も損害は非常に大きく何度も挫折寸前だった。しかし、日本軍側はガダルカナル争奪戦、ソロモン争奪戦で航空兵力、駆逐艦兵力を多く喪失した。
連合軍側がラバウル迂回した以降の時期は米軍側と日本軍側との海軍航空隊の人員・機材の優勢/劣勢が逆転した。連合軍側は搭乗員たち、機材の戦闘機空戦能力が優勢になった。日本側は教官の欠乏、訓練期間短縮、訓練用燃料不足のために新規搭乗員たちの技量は低下した。洋上を高速で自在に移動する点のような攻撃目標の艦隊を、飛行隊を組み海上を遠距離飛行して発見捕捉し攻撃作戦していた当時最高級の航空技量を持つ日本側搭乗員たちは殆どいなくなった。日本陸軍側が要塞化し集中堅持守備する各地要衝に対し、連合軍側は空白の密林地帯に巨大な土木機械力で大航空基地を1週間で建設して孤立化させていった。双方のバランスが崩れ、日本軍側は海と空を防衛する海上航空兵力を実質的にうしない、連合軍側にとっては激戦の沖縄戦を迎えるまでは追撃戦になった[125]。
著名なエースパイロット
備考
- 日米開戦当時は花吹山は小噴火を断続的に起しており、熱帯の花咲き乱れる美しいカビエンとは異なる火山灰が降り積もって荒涼とした風景であった[126]。1942年6月に凄まじい大雨が降ったのを境にそのとき以降、この小噴火は止まってしまったが火山灰地は残された。
- 東飛行場の戦闘機隊下士官兵の搭乗員宿舎は1943年11月までは飛行場南西の市街地側の低地にあった。1943年12月に夜間空襲が10数機で一晩に数度と増えてきたために、准士官(飛曹長)以上の搭乗員が使っていた飛行場から10kmほど離れ夜涼しく過ごしやすい官邸山頂上の士官宿舎のそばに下士官兵の搭乗員宿舎も移転し、傍らに大きな防空壕が作られた[127]。
- この海域では、南太平洋と北太平洋から貿易風が常に吹き寄せ、上昇気流到達する成層圏高度も高いため、上昇気流によって積乱雲が飛行機の飛び越えられない10000m以上の高空まで数時間で急激に発達、悪天候となり搭乗員たちの航空作戦遂行をしばしば妨げた[128]。
- 赤道近く南緯4度にあるラバウルは、大型艦船が停泊できる天然の良港を備え第一次大戦の後も委任統治府が置かれ、この地域における要衝であった。大戦前に海外留学経験のある古い海軍士官らからはラボールと呼ばれていた[129]。
- 熱帯風土病に繰り返し罹患することにより現地住民の寿命は短かった。疫病媒介昆虫の蚊殺虫剤DDTが世界に普及する以前の時代、悪性種類のマラリア原虫による重度の熱帯マラリア、強いウイルスの悪性デング熱があり、予防薬キニーネの常用と治療薬アブダミンの備えは必須、傷口は熱帯性潰瘍にかかりやすく、熱帯アメーバ赤痢を予防するため水は飲料用に煮沸が必要であった[130]。気候は地形(山の上側と平地側)によって暮らしやすさが大きく異なり、熱帯の夜の暑さは湿気を含んだ毛布とともに健康を害する元となっていた。搭乗員・基地員の3割は病気にかかり深刻な戦力問題および保健衛生問題となっていた[131]。また降伏後、マラリアの予防薬、治療薬を豪州軍に取り上げられたため、ラバウル将兵にマラリア・デング熱で死ぬものが戦後になって多かったことが知られている[132]。
脚注
参考文献
- (およそラバウル戦参戦順)
書籍
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- ボイントン, グレゴリー; 申橋 昭 訳. “(VMF-214)”, 海兵隊コルセア空戦記 (BAA BAA BLACKSHEEP). 光人社. ISBN.
- サカイダ, ヘンリー・碇 義朗 「(105空)」『最後のゼロファイター (Rabaul's LastEagles)』 光人社。ISBN。
- 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ 太平洋戦争海戦全史』 学研。ISBN。
- 橋本, 廣 「艦隊司令部信号員の太平洋海戦記」『機動部隊の栄光』 光人社、2005年。ISBN 4-7698-2468-8。
- サカイダ, ヘンリー・小林 昇 訳 『日本海軍航空隊のエース 1937 - 1945』 オスプレイ社。ISBN。
- サカイダ, ヘンリー・梅本 弘 訳 『日本陸軍航空隊のエース 1937 - 1945』 オスプレイ社。ISBN。
- Tillmann, Barrett. Hellcat Aces of World War 2. Ospray. ISBN.
- 米国戦略爆撃調査団; 大谷内 一夫 訳. JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡. 光人社. ISBN.
- 酣燈社航空情報編集部・木村 秀政・郡 竜彦 「三式戦闘機「飛燕」(土井武夫・大和田信)」『航空情報 No.99 臨時増刊 日本傑作機物語 恵美号から彩雲まで』 酣燈社、1959年4月。ISBN。
- 「No.626 特集・ラバウル航空隊の戦闘機」『モデルアート』 モデルアート社、2003年2月。ISBN。
関連項目
カテゴリ: 太平洋戦争 | 大日本帝国海軍航空隊
