多禰国についての最新情報、関連する画像や動画を紹介。(出典:Wikipedia)
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多禰国(たねのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった国の一つ。西海道に属し、現在の行政区域では鹿児島県の大隅諸島(種子島・屋久島)にあたる。
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沿革
7世紀後半には多禰島(たねのしま)、多禰国として日本と通交があった。『続日本紀』には多褹国との表記も見られる。
『続日本紀』大宝2年(702年)8月1日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」という記事があり、これが多禰の征服と多禰国建置を示すと考えられている。実際に多禰国の公印が与えられたのは714年(和銅7年)とされている。
多禰の場合、国のかわりに島(嶋)の字を用いて、多禰国を多禰島、その国司を島司と表すこともあった。国を島とも呼ぶのは、対馬・壱岐と共通する。
国の格付けは、南島(奄美・沖縄方面)との交流や遣唐使の派遣、隼人対策などの点から重要視されて中国とされていた。しかし実際には小国をはるかに下回る規模の税収しかなく、行政的な運営経費の不足分は大宰府が他の国から補填していた。
しかし隼人の対策が一段落し、遣唐使の派遣経路が変わると多禰島の重要性は薄れてきた。大宰府管内の飢饉に対処するために、多禰島の運営経費に当てていた税収が減少することになったため、財政の見直しの観点から天長元年(824年)10月1日に多禰島司を廃止し、能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国に編入した。この時の「多褹島停廃」の文章は名文として知られ、本朝文粋にも収録されている。
国府の所在については、諸説あって未だ定まっていない。屋久島の益救神社が多禰一宮であったとされる。
国司
- 大伴上足:天平宝字四年五月九日(760年6月30日)任
- 佐伯毛人:天平神護元年正月六日(765年2月4日)任
- 中臣習宜阿曾麻呂:宝亀元年八月二十一日(770年9月18日)任、同三年六月六日(772年7月14日)任大隅守
参考文献
- 原口 泉・永山 修一・日隈 正守・松尾 千歳・皆村 武一 『鹿児島県の歴史』 山川出版社 1999年 ISBN 4-634-32460-1
関連項目
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