日本人

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詳しい解説

日本人(にほんじん、にっぽんじん)とは一般に日本国国籍を持つ者。もしくは日本国内で多数を占める大和民族や、日本列島にルーツを持つ人々を指す。

日本人の一種である大和民族の例。
日本人の一種である大和民族の例。
戊辰戦争の頃の薩摩藩の武士。「武士」すなわち「サムライ」は外国における日本人の典型的なステレオタイプの一つである。
戊辰戦争の頃の薩摩藩武士。「武士」すなわち「サムライ」は外国における日本人の典型的なステレオタイプの一つである。

目次

概要

日本では、国籍文化習俗民族遺伝的形質のそれぞれを基準とした分類による「日本人」の対象が重なる割合が比較的高いと認識されているため、概念的にもどの基準によるものかは日常的には明確にされず、しばしば混同される。

定義と分類

日本人は、次のような幾つかの考え方により定義・分類が可能である。

民族としての形成

民族」を参照

以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しが進んでいる。

縄文人と弥生人

先史時代の日本列島に住んでいた人間を縄文人と呼んでいる[7]縄文時代末期・弥生時代に日本列島に住んでいた人間を弥生人と呼んでいる。弥生人は、渡来系の人々とその子孫、渡来系と縄文人が混血した人々とその子孫などの弥生人(渡来系)と、縄文人が弥生文化を受け入れて変化した弥生人(縄文系)に区別できる[8]。渡来系の人々の移動ルートについては諸説ある(下記「学説」参照)。

西部九州と北部九州の弥生人には違いがある、西部九州の弥生人は中国の長江下流域の人と共通性があり、北部九州の弥生人は朝鮮半島の人と共通性がある。その後の弥生人は他の地域(ユーラシア大陸サフル大陸など)での混合よりもその度合いが高いことから、比較的穏やかに交わっていったと推定されている。無論、部族間戦争は多数あったと推定されるが、それは渡来系弥生人が在来の縄文系住民を征服するという性質のものではなかった。

大和盆地の王を中心とした連合政権であるヤマト王権が成立すると、本州・四国・九州の住民の大半は大和民族として統合され、同化していった。東本州の蝦夷、南九州の熊襲と呼ばれた諸部族は王権の支配に従わず抵抗したが、隼人の反乱の失敗や、坂上田村麻呂の活躍などによって征服され同化した。白村江の戦い以後、倭国の同盟国百済からの亡命者も移住し、大和民族に溶け込んでいった。

このように、縄文系弥生人も渡来系弥生人もそのルーツはユーラシア大陸から移住・渡来した人々にあり、それぞれが日本の民族集団を形成する一部となっていった。[9]

「日本民族」の形成

大和民族が朝廷権力とともに勢力を拡大した後に「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。もっとも、完全に同化されない少数民族は常に存在したし、「日本人」「日本民族」という認識(ナショナルアイデンティティ)が浸透していく経緯については諸説あり、7世紀における白村江の戦いの敗戦がその画期となったとする見解や、日本における近代国民国家の成立期である明治時代という見解などがある[10]。日本人意識の起源を7世紀に求める説では、白村江敗戦後の危機感から倭国内部の改革が急がれ、律令制に基づく古代国家の建設とともに「日本」という国号が定められて日本人意識が確立したとされる。明治時代における日本人意識の形成を強調する説では、西欧列強諸国が東南アジアを中心に植民地を広げている社会情勢から、列強諸国に対抗できる近代国家にするため、分権的な幕藩体制の解体と新たな中央集権国家の建設が急がれ、廃藩置県徴兵令学制地租改正などの諸改革を経て国民の意識の統一がはかられたとされる。

ネーションステート下の認識

日本が近代ネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された植民地先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国が多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は内地人と呼ばれた。ただし、当該の先住民族の間では日本人が内地人と同義として使われることが多かった。

南樺太に住んでいたロシア人ポーランド人ウクライナ人ドイツ人朝鮮人ウィルタニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。

系統

以下、日本人の系統または起源に関する諸説について記述する。

系統関係

詳細は「モンゴロイド」、「人種」をそれぞれ参照

形質人類学的観点から日本人は、過去の縄文人弥生人や現在の日本国内土着の住民が、いずれもモンゴロイドに属する。むろん「モンゴロイド」という分類概念では中国人や朝鮮人などの東ユーラシア人全体が包括されるし、アメリカ先住民も含まれる。

だが、遺伝子の研究が進むにつれ、従来の人種概念は棄却され、便宜的に使用される分類名称としての各人種も、推定される起源地(原初の居住地)の地理的名称を基準とすることが多い。モンゴロイド集団の分布は日本人形成過程の分析にとって今日もなお重要な手がかりである。

斎藤成也は人類が単一種であることを前提にし、地域的な特徴を持つ集団として、約1万年前の居住地域を基準とし、アフリカ人、西ユーラシア人、サフール人、東ユーラシア人、南北アメリカ人という分類を提唱する[11]。また、サフール人を含めた、以前の広義のモンゴロイドを互いに遺伝的に近い人類集団として全て網羅する定義として「環太平洋人」が提唱されている[12]

日本人の発生的系統を考えるとき、上記分類によると、日本人はまずは東ユーラシア人ということができる。ただし、たとえば中国の山東省臨淄(りんし)から出土した古人骨のミトコンドリアDNA分析では、春秋戦国時代の集団は現代ヨーロッパ人類集団・トルコ人集団に近く、前漢時代の集団は中央アジア集団のクラスターに入るものであった[13]。それゆえ王朝の交代や戦乱や様々な事情で人類集団の系統は地理的にも定住するとは限らないし、「アジア人」と「ヨーロッパ人」とが分岐したからといって両者は完全に分割できるものではない。

また、日本人だけを調べても日本人の起源は分からないので、各人類集団との対照研究が必須である[14]

形質人類学からの接近方法

日本人の形成過程を分析する形質人類学からの接近方法には原人や古人骨などの形態解析、石器の分布分析なども古典的な方法としてあり、現在も継続されている[15]

港川人」および「日本列島の旧石器時代」を参照

縄文人からの連続を示す説

東大人類学教室の長谷部言人鈴木尚は豊富な発掘調査をもとに、日本人が時代を通じて変化してきたこと、明治以降の例でも分かるように、混血等がなくとも急激に形質が変化しうることを示し、一見、形質が大いに異なる縄文人弥生人の間でも、実は連続していて、外部からの大きな遺伝子の流入を仮定する必要はないと主張し、1980年代半ばまで有力な説であった(これは「変形説」と呼ばれる)。

現代では、松本秀雄がGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱しており[16]、また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも若干等質性が高い民族であるとの報告もある(台湾50、韓国70、日本80)[17]。 加えて、日本人(アイヌを含む北海道から沖縄県まで)は遺伝学的には大差はなく、比較的均一性が高いとする説がある。根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993 京都)にて、(アイヌを含む北海道から沖縄県までの)日本人は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていないという研究結果を出した[14][18]

考古学の観点からは、弥生早期の遺跡に外来系の土器が玄界灘に面した大きな遺跡からしか発見されていないことから、弥生人(渡来系)の人数を1割程度に見積もる研究者が多い[19]。一方で、人類学者による研究では大量の渡来があったとされ(埴原和郎で100万人、宝来聰で65%が渡来系)、この両者の違いがあったが、人類学者の中橋孝博らによる人口シミュレーションにより、農耕民の弥生人は狩猟民である縄文人よりも人口増加率が高いことが示され、渡来が少数でも数百年で圧倒的な数になることが示された[19][20]

また後世のY染色体研究により、日本人はY染色体D系統を多く保有している事が判明した。このD系統は中国・朝鮮半島には見られず縄文人特有とされる。この事から従来考えられていた以上に縄文人からの連続性がある事が証明された。

二重構造説

一方、日本人が混血によって成立したという考えも、幕末、明治のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトエドワード・S・モースの考察に早くから見られ、記紀神話などを参考に、在来の原住民を天孫族が征服して日本人が形成されたという論は盛んであった。京都大学の清野謙次の論などが「混血説」の代表である。第二次世界大戦後、長谷部=鈴木ラインの説が唱えられると、一時期、表立って主張されにくい傾向があったが、同じ東大系の鈴木尚の弟子である埴原和郎が、1980年代半ばに日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする二重構造説を唱えるに至って、一躍重層構造説が息を吹き返した。もとより、縄文人(アイヌ含む)を南方系、弥生人を北方系とする仮説は異論も多いが、日本人の重層性は有力視されるに至っている。尾本恵市が1995年に出した系統図では、日本人は朝鮮人、チベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌ人とは異なるとしており、1997年に出した系統図では、本土日本人はアイヌや沖縄県人、チベットと近く、韓国人、中国人とは離れているという結果を出しているが、いずれにせよある種の二重構造論となっている。しかし、同時に埴原の原日本人(アイヌを含む縄文人)の南方起源説には賛成しかねると述べている[21][22]。篠田謙一は、現代日本人のハプログループ頻度は韓国や中国東北部に非常に近く(北東アジア集団)、これは縄文人も弥生人も大陸から渡来し広がったことを裏付けているとする[23]。 宝来聰は、前出の根井らの研究に対して、ミトコンドリアDNAだけでも65%は渡来系由来であると反論しており、また、Y染色体の研究とも両立せず、縄文人は弥生人より歯が小さいことから、後者は前者の子孫ではあり得ないとするアメリカのブレイスらの研究とも両立しないと主張している[14]

日本人が重層構造であることは人類学者・考古学者の間では支持する意見が強く、また、分子人類学的なDNA解析(ハプログループによる地域的分布の解析)もあくまで生物学的データであり、文化的な交流や、実際の移動の実態および移動の理由などについては、今後も、文化人類学、歴史学、考古学など周辺諸科学の総合的な調査が求められる。

分子人類学による説明

ミトコンドリアDNAによる系統分析

1980年代からのミトコンドリアDNA研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ参照)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ミトコンドリアDNAやY染色体のようなゲノムの組換えしない部分を用いた系統樹の作成は、集団の移動とルーツを辿るのに用いられる。例えば日本人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの割合と、周辺の集団(韓国や中国、台湾、シベリア先住民など)つまり各ハプログループを比較することで、祖先がどのようなルートを辿って日本列島にたどり着いたかを推定できる。ただし、ミトコンドリアDNAは形態の生成に関与しない遺伝子であり、DNAタイプ(ハプロタイプ)と形質的特徴(骨格、体格、顔、皮膚など)とは必ずしも対応しないとされている[24]

現在の研究では、縄文人も弥生人もどちらも北東アジア中国シベリアブリヤート朝鮮半島)に類似したDNAが多く分布しており、縄文人を南方系、弥生人を北方系とする埴原和郎の二重構造説は批判されてはいる。しかしながら、多くのDNA分析がなされるに従い、日本民族が多重構造であり、本土日本人は韓国人に近く、琉球人やアイヌ人とは遺伝距離的に離れていることが確認されており、縄文人が南方経由ということを除くと、二重構造説が支持されるに至っている[25][26]

以下、ミトコンドリアDNAによる人類集団の系統分析を系統樹にしたものを参考に記す。

人類集団の遺伝的系統-1

この系統樹図によれば、最初にアフリカ人とその他の集団が分岐し、次にヨーロッパ人とその他の集団が分岐したこと、その次に東・東南アジア人とオーストラリア人が分岐し、最後の大きな分岐として東・東南アジア人とアメリカ先住民が分岐したということである。この系統樹で見られた主要な特徴は、従来のタンパク質多型や最近の核DNAの多型によって明らかにされた人類集団間の系統関係と大筋において一致する。

人類集団の遺伝的系統-2

近隣結合法による遺伝的近縁図
近隣結合法による遺伝的近縁図

この図によれば、アフリカン(ネグロイド)からコーカソイド(白人)が分岐し、コーカソイドからオセアニアン(オーストラロイド)・東アジア人(モンゴロイド)が分岐、そして東アジア人からネイティブアメリカ人が分岐した。この人類集団の近縁関係は上記の遺伝的系統樹と現在の人類集団の地理的配置に一致する。

塩基多様度のネット値(DA)分析による系統関係

ミトコンドリアDNAの塩基配列の多様性の度合いを比較分析することによっても系統関係を計測できる。塩基多様度のネット値(DA)分析によって求められた集団間の遺伝距離をもとにした系統樹では、まずアフリカ人より西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐し、次いで東ユーラシア人からアメリカ先住民が分岐し、次いでアイヌ人と東アジア人クラスターが分岐、次いで中国人と東アジア人が分岐、次いで琉球人と朝鮮人・本土日本人とが分岐する[27]

Y染色体による系統分析

母系をたどるミトコンドリアDNAに対して、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した[28][29][30]。ヒトのY染色体のDNA型はAからRの18系統があり、これらはアフリカ限定のA系統とB系統、出アフリカのC系統、DE系統、FR系統に分けられる[31]。崎谷満の分析によりY染色体のDNA型の比率を示す[31]。複数の研究成果をまとめたものなので[31]、合計が100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない。

 CDEFR
C1C3D1D2D3NO1O2aO2bO3
日本アイヌ013088000000
青森8003908003115
東京1214000312614
静岡5203302003620
徳島10303607003321
九州4802804203626
北琉球4003900003016
南琉球0040067
北アジアオロチョン91000
エヴェンキ6817
満州2740438
ブリヤート8428022
ハルハモンゴル52110023
ユカギル5025
コリャーク3333
チュクチ2525
ケット17
ニヴフ38
東アジア北部朝鮮1363303040
漢民族華北52066
60028
チベット316330033
東アジア南部・
東南アジア
漢民族華南51530033
漢民族台湾 117060
台湾169  7
イー169033
トゥチャ1830053
ミャオ47711071
ヤオ223052
シェ235063
チワン1168016
タイ476
ベトナム436361441
マレー113928031
ジャワ2342
フィリピン411

上記の分析から日本人はD2系統とO2b系統を中心としている事が判明した。D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも非常に古い系統である。

この系統はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の日本3集団に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られない事も判明した。これは縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ人88%に見られる事から、D系統は縄文人(古モンゴロイド)特有の形質だとされる。

アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体 分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が扱われ、さらにチベット人も沖縄人同様50%の頻度でこのYAPハプロタイプを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとするシナリオを提出した。

現在世界でD系統は極めて稀な系統になっており、日本人、とりわけアイヌ人が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。それを最大とし、その他では遠く西に離れたチベット人等に存続するだけである。これは後に両者を分ける広大な地域に、アジア系O系統が広く流入し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられている。奇しくも大陸で駆逐されたD系統は、日本ではその後の弥生人と混血し現在まで長く繁栄する事になった。特に、北端に隔絶されたアイヌ人は弥生人との混血を免れたということだろう。

なお東西に引き離されたD系統は、長い年月により東(日本)がD2、西(チベット等)がD1、D3となった。D2系統はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の日本人集団固有であり、他地域には見られない。

以下、前掲崎谷の分析に依拠して説明する。最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのはシベリアの狩猟民であるC3系統である(2-3万年前)。バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達した。また、一部はさらに南下し、北部九州に達した。崎谷は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えている。

その後、1万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県56%、本州42-56%で、朝鮮半島では稀である。近縁のD1,D3がチベットで見られる。D系統は華北で東西に分かれ、東がD2、西がD1,D3になったと考えられる。

同じ頃、経路は不明であるが、インドに起源を持つC1系統が南九州に入ってきた。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。

O1系統は台湾が起源であり、オーストロネシア語族との関連が想定されている。台湾と近いにも関わらず、日本列島ではO1はごく少数に過ぎない。

O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは2800年前である。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、朝鮮半島にそれぞれ達したと考えられる[32]。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる[33]

O3系統は黄河中上流を起源とし、漢民族に典型的に見られる他、周辺の諸民族にも広く見られる。歴史的にO3は一貫して拡大しており、このためにD系統およびO2系統が駆逐され、D系統は島国の日本や山岳のチベットにのみ残ったと考えられる。

一方、ミトコンドリアハプログループに注目すると、日本には世界で(主に)日本人にしか見られないM7aというグループがある[34]。これは台湾付近で発生したと考えられ、沖縄・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている(Mグループについて、M7aは台湾日本から朝鮮半島中国北東部への北上。M7b,cは南方及び中国沿岸へ)。

稲作の起源とその考古学的分析

稲作#日本への伝来」も参照

日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在している。

かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。

従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており[35]、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た[36][37][38][39]。それに加え、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本よりさかのぼれないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎 (農学者)の説もある[40]。一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している[41]。しかしながら、最近の遺伝子解析技術の進歩はめざましく、稲の伝来は揚子江流域から直接的に海を渡って九州に伝来したルートと朝鮮半島経由の二通り以上あるという説も有力視されるようになてきた。その説では水稲(温帯ジャポニカ)の伝来は極めて少量だったために、水稲(温帯ジャポニカ)栽培は弥生時代でも主流ではなかったということである。そういった学説は日本での水田跡が起源前まで遡るのに比べて、朝鮮半島では水田耕作の遺跡が1500年前くらいまでしか遡れない事実と符合するものでもある。[42]現在、炭素14による日本最古の水田稲作遺跡は2800~3000年前とされている。

「倭族」論

古代史・文化人類学研究者の鳥越憲三郎は「倭族」仮説(倭族論)を提唱している[43]。鳥越の定義では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である[44]。古代日本列島における倭人倭国については『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝倭人条)が有名であるが、鳥越は他の史書における倭人の記述(『論衡』から『旧唐書』に至るまで)を読解し[45]、長江(揚子江)上流域の四川雲南貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があったことを指摘した。その諸王国はたとえば『史記』にある以下の諸国である[46]

さらに鳥越は、倭族の起源地を雲南省の湖テン池(滇池)に比定し、水稲の人工栽培に成功したというシナリオを描く。以降、鳥越は古代史的な文献研究と現場調査を交差させ、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったことを示した。分岐したと比定される民族には、イ族ハニ族(古代での和夷に比定。またタイではアカ族[47])、タイ族ワ族[48]ミャオ族カレン族ラワ族などがある[49]。ほか鳥越は、高床式建物、貫頭衣注連縄などの風俗を比較している。

また諏訪春雄は倭族を百越の一部としている[50]

いずれにせよこの倭族論(倭族仮説)は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学の安田喜憲の長江文明論などとも重なっている。

言語

詳細は「日本語の起源」を参照

日本語の起源を解明することで、日本人のルーツを明らかにするという研究もある。

日本語の起源は、従来、アルタイ諸語オーストロネシア語族との関連が想定されてきたが、比較言語学的にはまだ証明されていない。長江文明の担い手のO2系統はオーストロアジア語族だったと考えられ、南下したO2a系統では言語を保持しているが、北上したO2b系統では朝鮮半島でも日本でも元の言語を失い、移住した土地の言語を受け入れたと考えられる。

現在の所、日本語の起源については、いくつかの説が出ているが決定的な物はない。

その他

  • 邦人(ほうじん)」という言葉は元来「自国の人」という意味である。日本においては一般的に日本人のことを指し、特に、日本国外に居留する日本人に対して使われることが多い。例として、日本国外で事件や事故、天災などが起こった場合、ニュースなどで「邦人」の言葉が使われ、彼らの被害や消息を伝えている。邦人といった場合、日本在住の外国人日系人は含まないことが多い。
  • リュドミラ・スキルダ(ウクライナの詩人でキエフ大学准教授、ユリー・コステンコ前駐日大使夫人)は著書『日本の国民性』で「永遠の問題をあまり思索せず、すばらしい束の間のはかなさを、これほどまでに重んじる国民を私は知らない。日本人は快楽主義者である」と述べている。

日本人論」を参照

脚注

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関連項目

外部リンク

日本人

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