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凡例
松下之綱
時代戦国時代から安土桃山時代
生誕天文7年(1538年
死没慶長3年2月30日1598年4月5日
別名左助・兵部(幼名)、加兵衛(通称)
諡号長参
主君今川義元→徳川家康→豊臣秀吉
官位従五位下、石見
氏族佐々木源氏西條氏庶流松下氏
父母父:松下長則
松下暁綱(長男)、松下重綱(次男)、
山内方綱(三男)、おりん(柳生宗矩正室)

松下 之綱(まつした ゆきつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将近江源氏六角氏の一族。豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃に一時期、主君として仕えていた人物である。

天文7年(1538年)、松下長則の子として生まれる(生年は大永7年(1527年)説がある)。

松下氏は元来は近江源氏西條氏の庶流であり近江に住んでいたが、弘治元年(1555年六角義実の勘気に触れ三河碧海郡松下に居住し、これにより松下を名乗ったという。之綱は遠江頭陀寺城主として今川義元に仕えた。なお、このときに木下藤吉郎と名乗っていた後の豊臣秀吉が仕えていたことがある(秀吉が仕えたのは長則ともいわれるが、通説では之綱となっている。ただし冨永公文は秀吉は長則に仕えたとしている)。

頭陀寺城は引馬城の支城と言う位置づけであったが、桶狭間の戦いの後に引馬城主(飯尾連龍との説もあるが連龍は桶狭間で戦死したとの説もある)が今川氏を見限り、周辺の親今川氏と反今川氏の豪族同士で抗争が起きた際、永禄7年(1564年)に今川方の軍に頭陀寺城が攻め落とされ炎上したと記録にある。頭陀寺城跡は2001年10月は発掘調査が行われ、炎上跡が確認された。

やがて今川氏が滅亡すると、徳川家康の家臣として仕えた。小牧長久手の合戦の際には徳川方についている。天正11年(1583年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の召し出しを受けて家臣として仕え、丹波河内伊勢などの内に3000石の所領を与えられた。天正15年(1587年)、従五位下・石見守に叙位・任官する。そして秀吉から6000石を与えられた。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が関東に移封されると、10月3日に遠江久野1万6000石の所領を与えられた。この時の居城である久野城は城の規模は小さいが、瓦の格式が高く立派な作りであったと発掘調査の結果明らかになっている。

慶長3年(1598年)2月30日に死去。享年61。後を次男の松下重綱が継いだ。長男が継がなかった理由はよくわかっていない。また柳生宗矩の妻おりんはこの松下家から出ている。

参考資料

  • 『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』 冨永公文
  • 『見る読む浜松歴史年表』 神谷 昌志

松下之綱