山田浅右衛門についての最新情報、関連する画像や動画を紹介。(出典:Wikipedia)

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山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名である。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。

目次

前史

江戸時代初期、試し斬りの名手として旗本であった中川重良が知られていた。専門的な試し斬りを行う人物としては、中川の弟子であった山野勘十郎永久が始まりとされる。彼は六千人余りの罪人を試し斬りし、供養のために永久寺を建立した。永久の子、勘十郎久英は1685年(貞享4年)に「御ためし御用」として正式な幕臣となった。久英の頃から御様御用は試し斬りだけでなく、処刑の際の首切りの役目をも拝命するようになった。しかし久英の子、吉左衛門久豊の跡継ぎであった弟に技量が無く、山野家は御様御用の役目を解かれた。

その後、鵜飼十郎右衛門や、松本長太夫といった山野家の弟子達が御様御用を務めた。その中の一人が浪人であった初代当主山田貞武である。他の弟子達は貞武より早く没し、子にも役目を継がせなかった。貞武は自らの技を伝えるため、1736年(元文元年)、子の山田吉時にも御様御用の経験を伝えたいと幕府に申し出、許可された。こうして山田浅右衛門家のみが御様御用の役目を務める体制が出来る。

山田浅右衛門家の性格

御様御用の役目自体は腰物奉行の支配下にあったれっきとした幕府の役目であったが、山田浅右衛門家は旗本御家人ではない、浪人の立場であった。 これは死の穢れを伴う役目のためにこうした措置がとられたと解釈されがちである。しかし、五代目山田浅右衛門吉睦は、腰物奉行臼井藤右衛門に聞いた話として次のような記録を残している。

徳川吉宗の前で山田吉時が試し斬りをし、吉宗がその刀を手にとって確かめるという事があったという。この時、吉時が幕臣になることを申し出ていれば、取り立てられたであろう。しかしその機会を失ったために、浪人の立場のままとなった。これが前例となり、浪人である山田浅右衛門家が御様御用を務める慣習になってしまった。』

また、御様御用には技術が必要であるため、世襲の家系では水準を満たさない者が現れる可能性もあり、技術のある者が居るうちだけの臨時雇いとして、山田浅右衛門家を浪人に留めたという説もある。また、旗本や御家人では後述する役目外の収入を得ることが困難となるため、吉時があえて浪人の立場を望んだのではないかという説もある。

山田浅右衛門家は多くの弟子を取り、当主が役目を果たせない時には弟子が代行した。また、当主に跡取りとなる男子が存在しない時には、弟子の中から跡継ぎを選んだ。弟子は大名家の家臣やその子弟が多く、中には旗本や御家人も存在した。

浅右衛門家の収入

浅右衛門家は浪人の身であり、幕府からの決まった知行を受け取ることはなかった。しかし、様々な収入源があり、たいへん裕福であった。1843年(天保14年)の将軍の日光参詣の際には幕府に三百両を献金している。一説には3~4万石の大名に匹敵するほどであったという。

公儀御様御用の際には幕府から金銀を拝領していたが、これはさほどの収入ではなかった。また、大名家などで処刑や試し斬りを行う際には役目を代行して収入を得ていた。また、試し斬りの経験を生かし、刀剣の鑑定も行っている。五代目吉睦の「懐宝剣尺」を代表とする、刀剣の位列も作成している。諸家から鑑定を依頼され、手数料を受け取っていたが、後には礼金へと性質が変化し、諸侯・旗本・庶民の富豪愛刀家から大きな収入を得た。出入りする酒井雅楽頭家立花家といった大名家から、毎年歳暮として米や鰹節を拝領していた。また、こうした人脈を利用して刀剣購入の世話をすることもあった。

しかし最大の収入源は「死体」であった。試し斬りにあった死体は山田浅右衛門家が拝領することを許された。 合法的に新鮮な死体を入手できたため、山田浅右衛門家は人間の肝臓胆嚢胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で販売され、山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。また、試し斬り用の死体や、遊女の約束用として死体の小指を売却することもあったという[1]

山田浅右衛門は、その金を死んでいった者達の供養に惜しみなく使った。東京都池袋の祥雲寺には、六代目山田朝右衛門吉昌が建立した髻塚(毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っている。また、罪人の今際の際の辞世を理解するために、三代目以降は俳諧を学び、俳号を所持している。

その他の逸話

首を斬る役の同心が実際に斬首すると、刀の研ぎ代として金二分ずつ下される。その役を浅右衛門に譲って首を打たせると、その二分は同心のものになり、さらに首斬りの御用を譲って貰ったというので浅右衛門からも礼金の分け前を貰えるのである。さらに首斬り役をさせてもらうために、浅右衛門の方から普段から付け届けを贈っていた。

浅右衛門の家では、首を斬る者が何人いると聞くと、その人数だけ蝋燭を上げて出役する。一つ首を落とすとその蝋燭の火が一つ消え、全ての蝋燭が消えると御役目が済んだと言った、等と言われた事もある。

明治以後

幕府瓦解後、八代目山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担った。しかし1870年(明治3年)には弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな収入源が無くなった。

1880年(明治13年)には刑法の制定により、死刑は絞首刑となることが決定された。1882年(明治15年)には刑法が施行され、斬首刑は廃止される。吉豊は1874年(明治7年)に斬役職務を解かれ、吉亮も1881年(明治14年)に斬役から市ヶ谷監獄の書記となり、翌年末には退職している。 こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、消滅した。

1938年(昭和13年)には浅右衛門の研究者達が、七代目山田朝右衛門吉利の孫娘の援助を受け、祥雲寺に「浅右衛門之碑」を建立した。碑の裏面には三代目以降の戒名と没年月日、辞世が刻まれている。

歴代山田浅右衛門

  • 初代 山田浅右衛門貞武(1657年-1716年)
  • 二代 山田浅右衛門吉時(?--1744年)(山田浅右衛門家では事実上の初代として扱われる)
  • 三代 山田浅右衛門吉継(1705年-1770年)
  • 四代 山田浅右衛門吉寛(1736年-1786年)
  • 五代 山田浅右衛門吉睦(1767年-1823年)(湯長谷藩士・三輪源八の子。後に朝右衛門と名乗った。)
  • 六代 山田朝右衛門吉昌(1787年-1852年)(三輪源八の養子、元は幕臣・遠藤次郎兵衛の子)
  • 七代 山田朝右衛門吉利(1813年-1884年)(新見藩士・後藤後左衛門の子。五代目の養子である吉寧の娘(六代目養女)と結婚。)
  • 八代 山田浅右衛門吉豊(1839年-1882年)(七代目の子)

以上、浅右衛門之碑に残る山田浅右衛門

  • 九代 山田吉亮(1854年-1911年)(八代目の実弟。七代目の三男。試し斬りの技に長け、大久保利通暗殺犯の島田一郎らや、高橋お伝を処刑するなど、八代目に代わる働きをした。このため、永島孫一は九代目、福永酔剣は閏八代としている。)

登場する作品

テレビ

小説

  • 綱淵謙錠
  • 山田風太郎『警視庁草紙』(ちくま文庫、河出文庫)幕末を経て斬首刑制度がなくなるまで警視庁に勤務する山田浅右衛門が登場。
  • 渡辺淳一『項の貌』山田浅右衛門が刃こぼれもせずに首切りが出来た理由を医学的な見地から推測している。
  • 鳥羽亮『鬼を斬る 山田浅右衛門涅槃斬り』(徳間文庫)7代目吉利を主人公とする。
  • 鳥羽亮『絆 山田浅右衛門斬日譚』(幻冬舎文庫)7代目吉利を主人公とする。
  • 大沼弘幸わたなべぢゅんいち『大江戸乱学事始』(電撃文庫)

漫画

参考書籍

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脚注

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