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真弓 明信
阪神タイガース 監督 #72
基本情報
国籍 日本
出身地福岡県大牟田市
生年月日1953年7月12日(56歳)
身長
体重
173cm
77kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手遊撃手二塁手
プロ入り1972年 ドラフト3位
初出場1973年5月5日
最終出場1995年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

真弓 明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手内野手外野手)。引退後は野球解説者、コーチを経て、2009年から阪神タイガース監督を務めている。

愛称は「ジョー」。アメリカに野球留学した際、アメリカ人にとって「Mayumi」は発音しづらいことから「Joe」が定着したという。『あしたのジョー』とは全く関係ないことを自著で述べている。

阪神監督になってからは「虎将」とメディアに表記されることが多い。

目次

経歴

アマチュア時代

熊本県玉名郡南関町生まれだが、小学3年生の時に福岡県大牟田市へ転居。小学6年生の時に、同じ社宅に暮らす原貢(後に読売ジャイアンツに入団する原辰徳の父)が監督を務める三池工業高校夏の甲子園で優勝し、その優勝パレードに感動したことがきっかけで野球選手を志すようになった[1]

柳川商業高校では若菜嘉晴と同期だった。若菜は高卒で西鉄ライオンズに入団し、真弓は社会人野球の電電九州に進んだ。1972年ドラフトで西鉄改め太平洋クラブに3位指名されプロ入りし、再び若菜とチームメイトになった。

太平洋・クラウン時代

アメリカの教育リーグに留学した後、1975年に当時の監督江藤愼一から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤監督が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と激怒して残留となった。1978年に遊撃手のレギュラーとなり、同年はベストナインに選出。

阪神時代

1979年田淵幸一らとの「世紀のトレード」で若菜らとともに阪神に移籍。長打力のある1番打者として活躍し、同年5月20日にはサイクル安打を達成する。

1983年には岡田彰布の故障に伴って二塁手に転向し、打率.353で首位打者を獲得。二塁手のベストナインにも選出される。1984年も岡田が一時外野にコンバートされたことにより、そのまま二塁手のレギュラーを務めた。

1985年には再び二塁手に戻った岡田と入れ替わる形で外野手に転向。同年に打率.322、34本塁打、84打点の好成績でチームのリーグ優勝・日本一に貢献し、ベストナインにも選出された。

1988年、個人事務所として「有限会社オフィス眞弓」を設立。

1994年代打の切り札として17安打で30打点と驚異的な勝負強さを発揮したが、翌1995年のシーズンでは、終盤からフロントと話し合い、球団は引退試合やセレモニーも用意して引退を勧めたが、真弓はこれを固辞して「年俸はいくらでもいいから、もう1年だけでもプレーさせてほしい」と懇願したものの、交渉は決裂。他に獲得の意思を示した球団もなかったため、そのまま現役を引退した。

解説者・コーチ時代

現役引退後は朝日放送サンテレビ野球解説者日刊スポーツ野球評論家を務めた。

2000年大阪近鉄バファローズの打撃コーチに就任。当時、監督の梨田昌孝、投手コーチの小林繁とともに「男前首脳陣」として話題となり、地元関西の洋菓子メーカーモロゾフバレンタインデーイメージキャラクターにも起用された。

2002年にヘッドコーチとなる。同年8月16日の対西武戦(西武ドーム)では出場停止の梨田に代わって監督代行を務めたが、2回途中で西武先発の松坂大輔をノックアウトし、この回の終了時点で近鉄が9-0とリードしていたものの、近鉄先発のジェレミー・パウエルが突然崩れ、4回終了時点で9-10と逆転を許す。7回表に吉岡雄二が同点本塁打を放つものの、その裏に松井稼頭央の2点本塁打で勝ち越され、そのまま10-12で敗れた。9点以上の差を逆転されての敗戦は史上7度目のことであった。

2004年に近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併に伴ってコーチを退任し、翌2005年から前述の解説に復帰した。また、一時期洋服の青山のイメージキャラクターを務めており、降板後もチラシのモデルで登場している。朝日オートセンターのCMには長く出ていて、同社でイベントがあるときは、解説者時代にもゲストとして呼ばれることがあった。

監督時代

2008年にリーグ優勝を逃したとして辞任した岡田彰布の後任として、10月23日に阪神タイガースの監督就任を球団から要請され受諾。10月27日に正式に就任が発表された。背番号は本人の希望から太平洋入団時の2と阪神時代の7を合わせた72となり、秋季キャンプからチームの指揮に当たった。キャンプ視察などもありこの年のドラフト会議は12球団の監督の中で唯一欠席した。

就任1年目の2009年に、盤石のリリーフ陣「JFK」の一角として活躍した久保田智之の先発転向、新井貴浩を一塁から三塁へのコンバートを行った。

先発投手に、より長いイニングを投げさせようとする傾向があり、これは登板過多のリリーフ陣がシーズン終盤に崩れて惜しくも優勝を逃した岡田監督時代の反省を踏まえての策であるが、明らかに疲れの見える投手の交代機が遅いといった批判もある。自身の誕生日でもある7月12日に自力優勝の可能性がなくなった。しかし、シーズン途中に入団をしたクレイグ・ブラゼルの活躍、後半戦は鳥谷敬、新井の復調などもあり、8カード連続で勝ち越しなど順調に勝ち星を重ね、ヤクルトの失速もあり猛烈な3位争いを繰り広げ一時3位にも立ったが、最終戦(10月9日)でヤクルトに敗れ4位となりクライマックスシリーズ出場はならなかった。監督就任時の会見で「バックネット裏から見ていて、野球というのは守りの野球が確実。投手を含めた、センターラインもそうですが、守りが重要。守れるチームが強い、日本一を狙えるチーム」と語っていたが[2]2002年以来7年ぶりとなるゴールデングラブ賞の受賞者がいなかった。

プレースタイル

1番打者でありながら打率・本塁打・打点ともにクリーンナップをはるかに凌ぐ成績を残し、1番打者の常識を根底から覆した。そのため、世界の盗塁王・福本豊とともに「史上最強の1番打者」「脅威の核弾頭」と呼ばれた。初球を打って本塁打・長打になることが多いことも特徴であった。初回先頭打者本塁打を通算41本打っており、福本に次ぐ歴代2位の記録を持っている。堅守・俊足の選手でもあり、史上初めて3つの異なるポジション(遊撃手・二塁手・外野手)でベストナインを受賞している。また、ライトゴロも記録している。

プロ入り当初は主に守備固めとして、全盛期は中軸打者、後年は代打の切り札と様々な出場条件にもかかわらず、その全てで結果を出せる実力と人気を兼ね備えた選手であった。しかし怪我もやや多く、ライオンズ時代の1978年から11年連続規定打席に達していたが、欠場が一桁にとどまったシーズンは4シーズンだった。

1982年のシーズン中、11連勝から一転8連敗を喫し、チーム全体が重苦しい雰囲気で悪循環に陥っていた時に、移動バスの中で加藤博一とともに突然「馬鹿騒ぎ」をし、コーチが2人に謝りながら鉄拳制裁を行い、その光景が面白かったためにチームの雰囲気が一変、ようやく連敗から脱出できたというエピソードを、著書『ジョーの野球讃歌』で語っている。

ヒッティングマーチ(応援歌)の原曲は「ミッキーマウスマーチ」で、代打の時は、1度しかない打席でファンがヒッティングマーチで楽しんでほしいという意図から、真弓はコールされてから打席に入るまでの時間を遅くし、初球にも手を出さなかった。1980年代後半頃は、真弓の打席で外野スタンドのファンがこの曲に合わせて「真弓、真弓、ホームラン」と歌いながら1列になって左右に移動する光景が見られた。この動きは真弓ダンスと呼ばれたが、このダンスで甲子園の外野スタンド自体がわずかながら揺れていることが明らかになり、スタンドが老朽化していたこともあってこのダンスは自粛されることになった。なお、同時期に中日ドラゴンズに在籍したケン・モッカの応援歌にもこの曲が使用されていた。

詳細情報

年度別打撃成績
































O
P
S
1973太平洋
クラウン
2000000000000000000----------------
19742311104200020110010050.200.273.200.473
19757868611619201248542050062.311.364.393.757
19761837362410052000010030.111.135.139.274
197711629527637729161011421892800355.261.280.366.646
197811844841868117133816038345811833427.280.314.383.696
1979阪神1255595175514215313202512014423620849.275.321.391.711
1980113512459791311542924174205554201664.285.343.525.868
1981111494444641211531318136267713963488.273.335.408.742
19821305545157515121215221551156429306813.293.328.429.758
1983112493448771582232325577137523771549.353.402.569.971
19841174754306912322527236641534239506911.286.344.549.893
1985119557497108160322342988485305631525.322.392.600.991
1986123558512781573122827660912042427711.307.362.539.901
198711950045560123181232125343014430553.270.334.466.800
1988130516478451291701719767730531328513.270.314.412.726
1989953112793669811612737210130315214.247.322.455.777
1990792762473275100171364930042431433.304.362.551.913
19911023192883877901713761100130104612.267.335.476.811
19926810910172120126120002531225.208.248.257.505
199363706321410221100001501192.222.286.333.619
199465766351730226300005810133.270.329.413.742
19952532270600064010140090.222.313.222.535
通算:23年20517270662495718882663029230908862007355405345017953139.285.338.466.805
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更

監督としてのチーム成績

年度球団順位試合勝利敗戦引分勝率ゲーム差チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2009年阪神4位14467734.47924.51062553.2856歳
通算:1年14467734.479Bクラス1回

背番号

  • 2 (1973年)
  • 42 (1974年 - 1978年)
  • 7 (1979年 - 1995年)
  • 75 (2000年 - 2004年)
  • 72 (2009年 - )

タイトル・表彰・記録

  • 首位打者:1回 (1983年)
  • ベストナイン:3回 (1978年=遊撃手、1983年=二塁手、1985年=外野手)
  • 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1985年)
  • サイクル安打:1回 (1979年5月20日)
  • 通算初回先頭打者本塁打:41本(表24本、裏17本) ※歴代2位
  • セ・リーグ通算初回先頭打者本塁打:38本(表21本、裏17本) ※セ・リーグ記録
  • 5試合連続本塁打:2回 (1980年6月25日 - 7月6日、1986年7月1日 - 7月6日)
  • シーズン代打打点:30 (1994年) ※日本記録
  • オールスターゲーム出場:9回 (1978年、1980年~ 1982年、1985年~1988年、1991年)
  • 通算1000試合出場 1984年6月28日(247人目)

過去の出演番組

以前は「おはよう朝日土曜日です(土曜版)」のスポーツコメンテーターも担当していた。

出演CM

過去の出演CM

著書

  • 『熱球悲願“ジョー”の野球讃歌』(恒文社, 1983年)ISBN 4770405189
  • 『猛虎は死なず』(ベースボール・マガジン社, 1991年)ISBN 4583029497
  • 『タイガースに捧ぐ』(ザ・マサダ, 1996年)ISBN 4915977242
  • 『新装版 猛虎は死なず』(ベースボール・マガジン社, 2009年)ISBN 9784583101590

参考文献

  • 本多史泰著『Good bye!真弓明信:1995年のピリオド.』(一番出版, 1996年)ISBN 4795216371

ディスコグラフィ

  • 男の夢(1985年)
  • 愛はふたたび(1985年, 村尾亜紀とデュエット

脚注

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関連項目

外部リンク


  1. 転送 Template:太平洋クラブライオンズ1972年ドラフト指名選手

真弓明信

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