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広島東洋カープ
会社名株式会社広島東洋カープ
創設年度1950年
所属リーグ
セントラル・リーグ
歴代チーム名
  • 広島カープ(1950年 - 1967年
  • 広島東洋カープ(1968年 - 現在)
本拠地
収容人員33,000人
フランチャイズの遍歴
広島県1952年 - 現在)
永久欠番
3:衣笠祥雄 | 8:山本浩二
獲得タイトル
日本一(3回)
1979 | 1980 | 1984
リーグ優勝(6回)
1975 | 1979 | 1980 | 1984 | 1986 | 1991
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年)
1975 | 1979 | 1980 | 1984 | 1986 | 1991
球団組織
オーナー松田元
運営母体松田家(マツダ創業者一族)[1]
監督野村謙二郎
株式会社広島東洋カープ
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地〒732-8501
広島市南区南蟹屋2丁目3-1
設立1956年1月[2]
業種サービス業
事業内容プロ野球興行
代表者松田元
資本金3億2,400万円[2]
売上高71億円 (08年12月期)[2]
従業員数102人 (09年11月現在)[2]
主要株主マツダ34.2%、松田元20.4%、カルピオ18.5%、松田弘12.2%、松田勢津子10.1%[1]
関係する人物松田恒次松田耕平
特記事項:勢津子は耕平の妻、元は耕平の長男、弘は耕平の次男でアンフィニ広島社長。
 Template‐ノート:基礎情報 会社 

広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本プロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。

目次

概要

広島県保護地域とし、同県広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)を専用球場(本拠地)としている。また、二軍ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。

親会社を持たない市民球団として結成されたという、ほかの球団と比較して特異の歴史を有する(マツダはカープと関連してはいるが会社としての球団への経営参加はしていない)。現在は松田家による同族経営となっている。

メディアなどで一文字の略称を用いる場合、漢字では「広」、アルファベットでは「C」で表記される。

現在、日本プロ野球12球団で最も日本一及びリーグ優勝及びAクラス入りから遠ざかっているチームである。(最後の日本一は1984年、リーグ優勝は1991年、Aクラス入りは1997年(3位)である。)また、12球団の中では唯一21世紀に入ってから一度もAクラスに入っていない。

有名人のファンにお笑い芸人チュートリアル徳井義実TBSアナウンサー安東弘樹アンガールズ筑紫哲也(故人)、久米宏、元フジテレビアナウンサー山中秀樹、元極楽とんぼ山本圭一、元猿岩石有吉弘行ユニコーン奥田民生ポルノグラフィティ岡野昭仁浜田省吾などがいる。

球団の歴史

壊滅の広島からプロ野球を 第一次低迷期

セ・リーグ優勝記念碑(旧広島市民球場横「勝鯉の森」内)
セ・リーグ優勝記念碑(旧広島市民球場横「勝鯉の森」内)
旧広島市民球場・三塁側より 2004年3月14日(広島対ダイエー(現ソフトバンク))撮影
旧広島市民球場・三塁側より 2004年3月14日(広島対ダイエー(現ソフトバンク))撮影
1949年

オフのリーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日セントラル・リーグに加盟。広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を広島カープとした。

1950年

3月10日に福岡平和台球場でセ・リーグ開幕戦が行われたが、選手入場時に掲げられたプラカードには何故か「広島カープス」と書かれていた。 本拠地は広島総合球場とした。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、石本秀一が自ら選手集めに奔走。投手に長谷川良平内藤幸三、野手では白石勝巳岩本章らが中心となったが、寄せ集めチームは著しく低迷する。

1951年

深刻な球団経営状態から解散案、あるいは当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な400万円(当時)を集め、球団も四方八方手を尽くし解散を回避[3]した。この年は7球団による20回総当りの120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。とくに広島は最下位決定のあと、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[4]

1952年

開幕前、同年シーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれていた[5]。設立より2年連続最下位だった広島が処罰の最有力候補だったが、長谷川良平杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、勝率.316で処罰を免れた[6]。勝率3割を割った松竹に対してシーズン終了後の代表者会議で合併を申し入れたが拒否されている(最終的に松竹は大洋ホエールズと合併した)[7]

この年限りで石本は退任し、代わりに赤嶺昌志一派の選手が集団で入団。小鶴誠金山次郎の入団だけで大パレードを敢行し、続いて獲得した日系二世選手・銭村兄弟(銭村健三銭村健四)、光吉勉入団の際にはさらに盛大な大パレードを行い、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。

1952年から53年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。しかもそのユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。

1953年1960年

オールスターのファン投票で、長谷川良平・小鶴誠・白石勝巳の3選手がトップ当選。「集団投票事件」などと批判を浴びた。

この年から1960年まで白石が監督を務める。成績は低迷するが、1960年にBクラスながら球団創設以来初の勝率5割を果たす。

チームカラーを赤に 赤ヘル黄金時代

1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用したが、1973年別当薫が監督就任すると、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。

1961年1972年

1962年まで門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。この間、広島市民球場に本拠地を移転した。

1963年1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。

1968年

東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となり、球団名を現在の広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとする松田家私有の同属経営球団となる。根本陸夫監督が就任。外木場義郎安仁屋宗八両投手の活躍もあって3位となり、球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄山本浩二水谷実雄ら、のちの「赤ヘル軍団」の台頭を促した。

1970年1971年

2年連続でシーズンを勝ち越したが、根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。

1975年

球団初の外国人監督として、前年より一軍打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが監督に就任。燃える闘志を表す意味をこめて帽子、ヘルメットの色が赤になった。ルーツはシーズン途中で退団し、後任に古葉竹識が選ばれた。

中日阪神と熾烈な優勝争いを繰り広げ、球団初優勝を果たす。日本シリーズでは、阪急ブレーブスと対戦するも4連敗(正確には、4敗2分)で敗北。この年の首位打者となった山本浩二衣笠祥雄最多勝外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた[8]。以降、カープは球団史上に残る黄金時代に突入する。

1977年

胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。

1978年

日本プロ野球史上初のシーズン本塁打200発を記録。山本浩二衣笠祥雄をはじめジム・ライトルヘンリー・ギャレットの両外国人、水谷実雄高橋慶彦らがアーチを描き赤ヘル打線が炸裂した。

1979年

2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。

1980年

このシーズンも快進撃を続け、3度目のリーグ制覇を達成。勢いそのままに、近鉄バファローズを下し日本シリーズ2連覇を成し遂げた。

1982年

津田恒美が活躍し、球団初の新人王に輝く。

1984年

山本、衣笠に加え山根和夫北別府学大野豊ら投手が活躍し3度目の日本一。古葉は1985年限りで勇退。

1986年

阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、ガッツ溢れる采配と手腕で、就任1年目にリーグ優勝[9]打線のスタメンに、外人助っ人はひとりもいないという「純血打線」として人気を博す。またこの年、長年チームの4番を務めてきた山本浩二が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。

1987年

この年限りで引退した衣笠が、2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新する。衣笠は引退時までに2215まで記録を伸ばした。

1989年

山本浩二が監督に就任する。

1991年

4月に戦線を離脱し闘病中の炎のストッパー・津田への熱い思いから、山本以下選手一丸、投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。日本シリーズでは、西武ライオンズと対戦。先に王手をかけた広島であったが、西武の底力の前に力尽き最終的には3勝4敗で敗退。この年以降、チームは優勝から遠ざかることとなる。

1992年

シーズンを勝ち越し、この年優勝したヤクルトとは僅か3ゲーム差であったものの、ヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差とセ・リーグ全体が例年に見ぬ大混戦となり、同率2位だった巨人阪神に僅か1勝の差で及ばずに4位[10]となり、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。

1993年

若手の佐々岡や北別府ら投手陣が崩壊し、最下位に転落。山本は責任を取って監督を辞任した。

この年の7月20日、津田恒美が脳腫瘍のため32歳の若さでこの世を去った。

1994年

三村敏之が監督に就任。一時期は10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わる。

1996年

シーズン中盤は2位に最大7ゲーム差を付けるなど首位を独走していたが、最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、3位に。この年以降、現在に至るまでチームは深刻な投手不足に悩まされるようになる。

1997年

大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得。この年に3位となったのを最後に、現在に至るまでチームはAクラス入りさえできないようになる。

1998年

投打の主力選手だった大野豊正田耕三の引退も重なり、5位に終わる。シーズン後に三村が監督を退任する。

第二次低迷期の到来 ブラウン政権へ

1999年2000年

達川晃豊が監督に就任。伝統の猛練習でチームの底上げを図るも、99年・00年とも5位に終わり、わずか2年で辞任。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。

2001年2005年

再び山本浩二が監督として指揮を執るも、凡ミスの多い試合内容[11]で1度もAクラスを経験しないまま、2005年終了後に成績不振の責任を取り辞任。 2005年9月、ライブドア社長(当時)の堀江貴文によるカープ球団買収報道が流れ、10月中旬にライブドアが本格的に球団買収調査を開始したと報道された。

2006年

ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を計った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹に決定。ユニフォームにはキャプテンマークとして「C」の文字を入れた。

開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。

2007年

キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割をキープしていたが、交流戦で最下位に沈んだことで優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。しかし、長年阪神に負け越していたが、14勝9敗1引き分けと阪神に勝ち越し、長年の雪辱を果たした。

課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび炎上して安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩黒田博樹FA宣言し退団した。

チームの投打の大黒柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。新井の人的補償制度として赤松真人を獲得し、他にも新人や新外国人選手を含め14人もの新入団選手を獲得した。

2008年

苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、vs巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。

延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。

本拠地を新たに カープの新時代

2009年

この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も「マツダ Zoom-Zoomスタジアム広島」に変更した。

オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。

シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く(特に前半戦は打率.220~.230台と極度の貧打に悩まされた)、低迷状態に陥り、1950年以来59年ぶりとなるvs中日戦11連敗という球団史上最悪の記録を更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定[12]

また、この年に1500本安打を達成した緒方孝市が、23年間の現役生活に幕を閉じた。緒方の引退により、現役選手の中でのカープ優勝経験者は、前田智徳のみとなってしまった。

2010年

広島OBで野球評論家の野村謙二郎が監督に就任。背番号は現役時代の「7」を2つ並べて、「77」に決定。

チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。青い丸は日本シリーズ優勝を示す
1950年以降の順位の変遷。青い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • リーグ優勝 6回
    • (1975年、1979年、1980年、1984年、1986年、1991年)
  • 日本一 3回
    • (1979年、1980年、1984年)
  • Aクラス 20回
    • (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年)
  • Bクラス 39回
    • (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2009年)※1
  • 最多勝 75勝(1984年)
  • 最多敗 96敗(1950年)
  • 最多引分 18分(1978年)
  • 最高勝率 .625(1984年)
  • 最低勝率 .299(1950年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年 - 1991年)
  • 連続Bクラス最長記録 18年(1950年 - 1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークス〔1978年 - 1997年〕の20年に次ぐ史上2位)

その他の記録

  • 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年)
  • 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年)
  • 最多本塁打 205本(1978年)
  • 最少本塁打 29本(1952年)
  • 最高打率 .284(1978年)
  • 最低打率 .213(1956年)
  • 最高防御率 2.62(1959年)
  • 最低防御率 5.20(1950年)

歴代本拠地

チーム特徴

  • ニックネームの「カープ」は「」の英語Carpに由来。名付け親は政治家谷川昇公職追放指定を受けたため球団経営には参画せず)。このニックネームになった経緯は以下の通り。
    • 広島市を流れる太田川が鯉の産地であること
    • 広島城が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、太平洋戦争での広島市への原子爆弾投下の後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと
    • 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また己斐(こい)〔広島市西区の地名〕は鯉から転化したものであり、にも通ずる」から
    • 加盟当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした[13]。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された2軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また、アトムズは原子爆弾からの連想で、原子爆弾に広島を象徴させる事が提案されたのは核兵器廃絶運動の拡大前という時代背景があった[要出典]。これはその後1966年から1973年サンケイ→ヤクルトが、フジテレビジョンのアニメ鉄腕アトムに由来する名称として採用していた。
  • チームをイメージさせるカラーとしてが知られている。1958年にユニフォームのロゴ・袖口・襟周りに赤い縁取りがなされ、1975年には当時のジョー・ルーツ監督のアイディアで帽子を赤一色に変えたのがその由来で(前述)、1977年以降はホーム用ユニフォームに赤と白を基調としたデザインが用いられている。ただし、球団旗は40年近く地の中央に白文字で「H」が描かれたシンプルなデザインであり、赤が用いられたことはない。
  • 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳門前眞佐人といった、他球団から選手として移籍してきた広島県出身者を中心とした選手が(選手兼任で、あるいは引退後に)監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。
  • 他球団が外国人選手を採用しても、平山智らのような日系人や、形式的に外国人登録がなされた場合でも日本人選手と同様に扱われていた在日コリアンのほかは、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にメジャー・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスが日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後も、リッチー・シェーンゲイル・ホプキンスジム・ライトルマイク・デュプリールイス・ロペスエディ・ディアスネイサン・ミンチーアンディ・シーツコルビー・ルイスといった外国人選手が顕著な活躍を残している。しかしカープ在籍中に活躍したにも関わらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年に千葉ロッテに移籍)やアンディ・シーツ(2005年に阪神に移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、トム・デイビー(2006年にオリックスに移籍)グレッグ・ラロッカ(2006年にヤクルトに移籍→現・オリックス)などの例が見られる。
  • 球団マスコットは「スラィリー」。詳細はその項を参照。また、1975年6月より「カープ坊や」がマスコットとして存在している。スラィリー登場後も球団の応援グッズなどに描かれ続けている。
  • 1963年春から、宮崎県日南市で春・秋キャンプを行っているが、1966年日南市が読売ジャイアンツからキャンプのオファーを受けたこともあり、ジャイアンツキャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島カープのキャンプ地として知られる。(日南市天福球場の項も参照)
  • 現存する日本プロ野球チームの中で、一度たりとも正式に企業の傘下に入らず独立採算制を貫く唯一の市民球団である。このため資金が豊富ではないこともあって、フリーエージェント (FA) 制度やドラフト希望枠での選手の獲得の活用には消極的(あるいは否定的)である。現在まで他球団のFA宣言選手の獲得も行っておらず、2005年までは所属選手のFA宣言をしての残留(一般的には再契約金が発生する)も認めていなかったが、2006年以降はFA宣言選手の残留も認め、希望枠選手の獲得も行っている。FAに関しては2006年に資格を取得した黒田博樹に対して球団として初めて宣言後の残留交渉を行うこととしていたが、結果的にその年は黒田は宣言せず、複数年契約(後述)を結んだ。2007年は阪神にFAで移籍した新井貴浩の人的補償として赤松真人を獲得した。希望枠選手の獲得は2006年の社会人・大学生ドラフトでの宮崎充登がある。
  • 合宿所は1軍と2軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1ヶ所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に2軍の合宿所を建設。三篠寮は1軍選手専用となった。
  • 8月6日の広島原爆忌当日、仮に広島の主催試合が編成された場合は広島市民球場は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場等で試合を行う。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためである。広島市民球場最終年となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった。
  • 他の球団に比べ地方球場での主催試合が多い。上記の倉敷、福山以外にも、尾道しまなみ球場米子市民球場松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等、中国・四国地方の球場で主催ゲームが開催される。なお2005年、松山では主催試合を開催していないが、ビジターでヤクルトと阪神のそれぞれ主催で2連戦ずつが編成されている。またビジター球団が地域保護権を有する自治体に程近い地域や、ビジター球団のファンが多い地域で主催試合を行うケースも多く、1989年には群馬県前橋市群馬県立敷島公園野球場新潟市鳥屋野運動公園野球場ヤクルトスワローズ戦を、1990年から1997年にかけては岐阜市長良川球場中日ドラゴンズ戦を開催しており、さらに近年は北陸地方福井県営球場石川県立野球場富山市民球場アルペンスタジアム)で阪神タイガース戦を開催している。またかつては他球団の地方主催試合の相手となることも多かった。

但し近年は交流戦の影響や新本拠地の開場もあってか、地方試合は年々減少傾向にある(2003年頃までは地方での試合が大体10~13試合程度あったものの、2010年度は僅か4試合の予定となっている)。詳細は広島東洋カープ主催試合の地方球場一覧を参照の事。

  • 1980年代後半から1990年代前半は、地方開催主催ゲームでもとりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(福島県営あづま球場宮城球場岩手県営野球場秋田市八橋運動公園硬式野球場など)でデーゲームを開催していた。バブル経済全盛期にはファームの拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。
  • 新規竣工、もしくは大規模改修が竣工した地方球場で主催試合を開催するケースも多い。広島県内では1993年呉市二河野球場で改修後初のプロ公式戦を開催した他、2009年には竣工したばかりのみよし運動公園野球場(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には秋田県立野球場(こまちスタジアム)で、2009年には新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)でそれぞれ球場開きを飾った他、2000年には長野オリンピックスタジアムで同スタジアム初のセ・リーグ公式戦を開催している。
  • 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターのレギュラーの試合開始時間は18時20分だった。これは広島市日照時間が日本一長いための措置。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込む等の方針見直しに伴い、2006年よりナイター全試合を18時試合開始に変更している。一部試合(土曜・日曜・祝日など)は薄暮試合という処置を取り、午後3時から試合を行う。
  • 市民球団として早くから広島地域に根付いた活動をしていたことから私設応援団が多数存在していたため、公式ファンクラブが結成されたのは2007年からと12球団で最後の結成となっている。

チームの戦いぶり

  • 1990年代中盤以降は投手力の著しい低下に伴い、ルーキー投手も主力として投げることが多いが、これらの投手が1年目は活躍するものの、1年目の酷使がたたって早期に引退に追い込まれるケースが目立つ。逆指名入団の山内泰幸澤崎俊和新人王小林幹英はセ・リーグ特別表彰を受賞したが、2年目以降は故障などで尻すぼみになり、3人とも10年以内で引退している。なお、3人とも現在は広島の一軍あるいは二軍投手コーチを務める。高卒では苫米地鉄人が1年目から開幕1軍入りするなど活躍したが、その後は伸び悩んで結局7年で引退した。
  • 1984年に挙げた75勝がチームのシーズン最多勝記録で、セントラル・リーグに所属する球団では唯一のシーズン80勝未到達球団である。
  • 球団創設から1967年までの18年連続Bクラスはセ・リーグワースト記録である。また、1996年福岡ダイエーホークスに抜かれるまではプロ野球ワースト記録だった。
  • 現在、新規球団の楽天を除く11球団の中で、最もリーグ優勝・日本一から遠ざかっているチームとなっている。加えて1998年以降、チームが12年連続でBクラスのため、主力選手のほとんどが優勝はおろか、Aクラス入りの経験すらしていない。また、21世紀になってから一度もAクラスになっていないのは、消滅した近鉄を含めた13球団の中でも広島のみであり、現在優勝経験のある生え抜きの現役選手は前田智徳だけである。
  • 打線は機動力や小技を発揮出来る選手の育成が進まず、本塁打に頼る野球になり、阪神と中日が強くなった2003年頃からは、阪神甲子園球場ナゴヤドーム等の広い球場では点が取れず広島の“鬼門”とも呼ばれている。逆に本塁打の出やすい神宮球場ではヤクルトとの好相性もあってか勝つことが多い(1998年は14戦全敗だった)が、2008年以降グラウンド拡張や金網の高さが上昇するなど本塁打は減少している。
  • 交流戦導入後、2005年(11勝24敗1分)、2006年(16勝20敗)、2007年(5勝18敗1分)と3シーズン連続で負け越していた。負け越しの数も多く、これもシーズンの足を引っ張る要素の一つであったため、交流戦も阪神戦や中日戦と同様に、広島の“鬼門”と呼ばれることが多かった。しかし、2008年は13勝11敗で初めて勝ち越し、2009年は14勝9敗1分と大きく勝ち越した。

ユニフォーム

スパイク

  • 2009年現在、12球団で唯一、公式戦での球団指定メーカー(ミズノアシックスSSK)以外のスパイクの使用が認められていない。これには選手より以前から各自の契約メーカーの使用許可の要望が寄せられている。

変遷

  • 1950年 - 1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。
  • 1952年 - 1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、フマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。
  • 1954年 - 1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用を南十字星がイメージし、「Hiroshima」の「i」の字の上部を「☆」にしている。帽子のマークに現在のデザインに似た「C」を採用。
  • 1958年 - 1962年 レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。この時初めてユニフォームに「赤」が取り入れられる。帽子マークは小文字の「c」と「h」を並べたデザインに変更。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。(スペルはHirosima)。また、胸番号も登場。
  • 1963年 - 1972年 白石勝巳監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。帽子のマークは「HIROSHIMA」のHマークになる(Hマークは現在の球団旗にも使われている)。
    • ビジター用はグレー地で、胸ロゴは花文字書体のHIROSHIMA。胸番号は無く、左袖に番号が付く。
      • 1968年より、根本陸夫監督就任に伴い、袖、ベルトループのラインが太くなり、ビジター用の番号が袖から右胸につく。この年から「広島東洋カープ」と名称変更したことにより、ビジター用の右袖に東洋工業(現:マツダ)の「TOYO」の文字が入る。
      • 1971年より、袖、首、パンツ、ベルトループの紺ラインをオレンジで挟むラインとなり、胸ロゴ、背番号、胸番号がオレンジの縁取り、帽子のHマークがオレンジになる。また、ビジターの胸番号がホーム同様左側に統一される。
  • 1973年 - 1974年 別当薫監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、プルオーバーとなる。背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークがHから、シンシナティ・レッズ中央大学(さらにアメリカンフットボールシカゴ・ベアーズも)と同じ形状のC(赤に白の縁取り)に変わる。
    • ビジター用は、ブルーグレー地になり、1960年 - 1963年にかけて使用されていた「Hiroshima」の筆記体ロゴが復活する。
  • 1975年 - 1976年 ジョー・ルーツ監督就任に伴い、帽子の色が赤に、Cマークが紺に白の縁取りとなる。さらに首周りがVネックとなる。
  • 1977年 - 1988年 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ=が完全に定着する。袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、外側に移動した袖の紺ラインが細くなる。また、スパイクが白地に赤のラインとなる。
    • ビジター用は、ブルーグレーから鮮やかなスカイブルー地になり、胸ロゴ、背番号、胸番号が光る素材のものになる。スパイクもスカイブルー地に赤のラインとなる。
      • 1978年より、背番号の上に選手名が入る、
      • 1988年のみ、ベルトレスからベルト式になる。
        • このデザインは12年の長きに渡り使用され、1979年1980年1984年の3度の日本一(1986年はリーグ優勝)を果たした。ちなみにビジターユニフォームは広島刑務所に寄贈され、受刑者がソフトボール大会で着用していた。現に中畑清日本テレビの特番「刑務所24時」の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。
  • 1989年 - 1995年 山本浩二監督就任に伴い、ユニフォームを一新。シンシナティ・レッズを意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子のCマークが白一色になり、シンシナティ・レッズと全く同じデザインとなる。
    • ビジター用は上下グレー。ホーム、ビジター共スパイクも白地に赤ラインとなる。プルオーバーから現在のボタン式(但し、第3ボタンまでがボタン脱着式で、あとは飾りボタン)に変更される。
    • なお1994年のホーム用のみ、同年開催されたアジア大会広島大会をPRするマークが入った。
  • 1996年 - 2001年 胸ロゴが正面に、胸番号が左胸に戻る。赤の前立てラインがつき、袖のラインが消え、パンツのラインが赤の細ラインになる。
    • ホーム用は、「CARP」の花文字が復活。
    • ビジター用は、「HIROSHIMA」(1963年 - 1972年使用)のロゴが復活する。1999年のみ、球団創設50周年のマークが入る。
    • この時代のユニフォームの背番号のサイズはホーム、ビジター共にそれまでのものより若干大きめだった。
  • 2002年 - 2008年 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを桜文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。
  • この時のビジターユニフォームは両袖の部分が赤色でアナハイム・エンゼルス(当時)に似たデザインで一見ノースリーブのように見えるデザインだった。
    • 2005年からホーム用のみ、スポンサー・マツダの広告が入るようになった。同年からスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
    • 2006年ブラウン監督の発案により、投手および野手キャプテン選手の右袖に黄色の「C」が入る。
    • 2007年より、ビジター用ユニフォームの胸ロゴが70 - 80年代に使われた「HIROSHIMA」の筆記体書体になる。また炎のボールマークからキャッチフレーズのALL-INのロゴに変わってそれが入る。
  • 2009年 - 本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島移転に伴い、ユニフォームを一新。縦縞が消え、創設時より採用されていた紺色が21年ぶりに復活する。帽子のCマークに紺色の縁取りが入り、パンツには赤と紺の細いラインが入る。
    • ホーム用は上下白を基調とし、赤い胸ロゴ、背番号、胸番号に紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取りが入る。
    • ビジター用は上着が赤、パンツは白。チーム史上初めてツートンカラーを採用。上着に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」の白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」ロゴ、背番号と胸番号は白に紺の縁取りが入る。

期間限定ユニフォーム

  • 2008年9月23日より25日の3日間(対巨人戦)、1977年 - 1988年の復刻モデルユニフォームを着用。

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歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 ここから広島東洋カープ
※2 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行
※3 1975年は4月30日まで指揮、5月3日までは野崎泰一が代行
※4 1999年から2000年の登録名は達川晃豊

永久欠番

永久預かり(honored (honoured) number)

カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。

  • 20(1995年 - 2002年) 前任者は北別府学永川勝浩に与えられた。
  • 7(2006年 - ) 前任者は野村謙二郎。なお野村は2010年シーズンからの監督就任に際し、背番号は「77」とした。

キーワード

経営事情

カープは当初、広島県、広島市、呉市中国新聞日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り1960年代まで続いた。

また、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。

1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし現在もマツダは株を保有し、運営会社はマツダグループに名を連ねている。このように、実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え[要出典]、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。

FA残留拒否

1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、広島は横浜ダイエーと共に一貫してFA権の行使は認めても行使後の残留(FA残留)は一切認めてこなかった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。さらに、年俸の高騰を招くため、2009年オフに日本ハムからFA宣言した藤井秀悟(結局巨人に入団)の獲得に動くまで[15]他球団のFA選手の獲得にも動かなかった[16]。更には、2008年オフに東京ヤクルトスワローズ東北楽天イーグルスが球団史上初めてFA選手を獲得したことにより、広島は消滅した近鉄を含むセ・パ13球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となった。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲(現阪神)などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められなかった。

そんな中、2006年にFA権を取得したエースの黒田博樹投手がFA宣言を示唆する発言をした(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)。球団にとって彼の流出は死活問題となるので、今回ばかりはFA残留を認めざるを得ない状況になった。しかしこの年の黒田はFA権を行使せずに残留した。また翌2007年に新井貴浩内野手がFA宣言した際も、球団はFA残留を認める方向だったが、結局阪神に移籍した。2008年末、東出輝裕内野手もFA権を獲得したが、宣言せずに残留した。2008年の東出は、シーズン打率3割1分を残すなど10年間のキャリアで自己最高の成績を挙げただけではなく、内野のリーダーとしても高く評価され、FA権を行使した場合でも残留を認める方向だった。2009年オフ、前年オフにFA権を行使した高橋建がメジャー再挑戦を断念し、広島カープに再入団した。高橋建は米大リーグ・メッツを戦力外のためFA申請をしたFA選手ではないものの、FA権を行使して広島を退団した選手で初めての再契約となった。

3文字のエース伝説

広島カープのエースと呼ばれた選手の中に、長谷川良平大田垣(備前)喜夫安仁屋宗八外木場義郎北別府学佐々岡真司ら3文字の名字の選手が多い。

8人の侍

1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。

3月13日NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。

疑惑のホームラン

1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱えた。この試合の会場はフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。

当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。

そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。

身代わり出頭

1956年5月20日に広島総合球場で開催されたvs巨人戦で、ファンが3連敗に怒りを露わにして、物を巨人選手が引き揚げ中のグラウンドに投げ込んだ。その際、巨人投手の木戸美摸にビール瓶が直撃し負傷する。未必の故意による傷害行為であり、ファンによる水原監督への暴行もあって、巨人側が「犯人を出さない以上、二度と広島でゲームはしない」と強硬な態度を示した。その後、カープのためとファンの男性2人が何もしていないにもかかわらず「替え玉」として出頭(後に証拠不十分で不起訴処分)し、事態を収拾した。

詳細は木戸美摸投手負傷事件を参照のこと。

線審負傷事件

1966年6月5日、対阪神戦で山本一義が死球を受けたためファンが騒いだが、一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の負傷。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。

完全試合とノーヒットノーラン献上率が高いチーム

完全試合を合計3度献上しており、これは日本プロ野球最多の数字である。その一方で外木場義郎1968年9月14日に完全試合を達成しているがその相手は2番目のゲームでの達成者、佐々木吉郎がいた大洋である。

ノーヒットノーランに関しても球団創設以来9度も献上しており、この献上回数もまた日本プロ野球チームで最多である。2004年10月には阪神井川慶にノーヒットノーランを許した直後の横浜戦でも9回裏2死までノーヒットであと一人で吉見祐治投手にまでノーヒットノーランを許してしまう事態となり、あわや日本プロ野球初となる1シーズン2度ノーヒットノーランを相手球団の先発投手に許すという不名誉な記録を作るところであったが、そこから福地寿樹(現東京ヤクルトスワローズ)が二塁打を放ち、ぎりぎりの所でこの記録から免れた(ちなみに、この試合での広島の安打はこの福地の二塁打1本のみであり、福地自身のシーズン初安打でもあった)。

沖縄県出身初のプロ野球選手

1964年入団の安仁屋宗八投手は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。

「カープを優勝させる会」

1966年東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之石本美由起新藤兼人藤原弘達木村功杉村春子森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。

こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。しかし、90年代後半から続いている広島のふがいない成績や戦いぶりに「もう一度この会を復活させよう」という声が上がっている。

変則ダブルヘッダー

1967年10月12日、カープは日程調整の関係でデーゲーム(13時開始)に巨人戦(後楽園球場)、続いてナイター(19時開始)でサンケイ戦(神宮球場)を行った。同じ日に同じチームが違う対戦チーム・違う球場でのダブルヘッダーを行ったのは、1952年に現在のフランチャイズ制が確立されて以降これが唯一である。

鯉の季節

初めてAクラス入りした1968年、カープは阪神との岡山・姫路での開幕シリーズに連勝。7連敗で一時3位に転落したものの6月12日には首位に返り咲き、7月6日まで守った。この年はピンキーとキラーズのデビュー曲「恋の季節」がヒットしたこともあり、曲のタイトルとカープ(=鯉)を引っ掛けた「鯉の季節」という言葉が新聞紙上を飾った。最近でも「鯉の季節」という言葉自体は使われるが、「鯉のぼりの時期までのカープは勢いがあるが、それを過ぎれば転落していく」という、からかい半分またはファン自らが自嘲的な意味で使うことが多い。

外木場、3度のノーヒッター

日本のプロ野球において、ノーヒットノーランの最多記録保持者は沢村栄治巨人軍)と当チームの外木場義郎の2名。回数は3回である。

外木場は1965年10月2日、デビュー2戦目の阪神戦でプロ入り初勝利・初完封をノーヒットノーランで飾る快挙を達成すると、1968年9月14日には大洋を相手に2度目のそれを完全試合(史上10人目、カープとしては初)で決め、日本タイの3回目のノーヒッターは1972年4月29日、沢村が所属した巨人との対戦で飾った。

江夏の21球

詳細は「江夏の21球」を参照

1979年近鉄バファローズとの日本シリーズ第7戦で、江夏豊がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け広島を日本一に導く。このシーズンで自身初、そしてリリーフ投手で初のMVPに輝く。なお、後にこの詳細はNHK特集に取り上げられた。

日本シリーズMVPの自動車

カープは過去に1979、80、84年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。

広島カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手(75:阪急 86,91:西武)には通常と同じくトヨタ車がプレゼントされている。

なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以後日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。

停電事故

1982年7月8日に開かれた阪神戦と2004年9月15日の巨人戦の清原和博選手の打席後、及び2006年8月2日のヤクルト戦でナイター照明の停電事故を経験している。1982年のケースは岡山県営球場での事故で、ナイター照明に蛇が絡まったことによるもの、他2つは本拠・広島市民球場による事故で、試合中市内での落雷発生によるもので何れも数十分間試合が中断した。2006年の場合はその後豪雨が降ったためにグラウンドコンディションが悪化し7回表途中でコールドゲームとなった。

背番号0の男

1983年、長嶋清幸背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。

究極の右投手攻略法

1988年6月26日盛岡での横浜大洋ホエールズ戦でのこと。大洋の先発投手を右の斉藤明夫と読み切った監督の阿南準郎は、以下のオーダーを組んだ。

守備選手
正田耕三
山崎隆造
高橋慶彦
小早川毅彦
長嶋清幸
松林和雄
高信二
達川光男
大野豊

小早川・長嶋・高・大野は左打者。また正田・山崎・高橋・松林はスイッチヒッターで右投手が相手だと左打席に入るので、達川以外の8人が左打者というスタメンになった。

試合は初回に正田・山崎が連打で無死2・3塁としたところで高橋の2点タイムリーで先制。4回表に同点に追いつかれたものの、7回裏に9人目の左打者・西田真二の2塁打を機に決勝点をもぎ取って勝った。この後もカープはしばしばこのオーダーを使い、他球団の右投手を苦しめた。

1984年2月28日鹿児島でのロッテオリオンズとのオープン戦では、以下のような、山崎・高橋・川口のスイッチヒッター3人以外は左打者だけのオーダーを組んでいる。

守備選手
山崎隆造
長嶋清幸
高橋慶彦
長内孝
小早川毅彦
西田真二
定岡徹久
山中潔
川口和久

日本球界初のアカデミー

アメリカ合衆国メジャーリーグでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国ベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏季にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)

日本ではそれまで下部組織は国内の2軍だけだったが、チームがメジャーリーグなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々のデメリットを危惧したことを受けて、上記メジャーリーグのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレスソリアーノペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。

クモ男

1990年5月12日開催の対巨人7回戦(広島市民球場)6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋をはいた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったといわれるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒を焚き、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者だった。この日、野球中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件についてマスコミからコメントを求められるや「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され罰金20万円の刑事処分をうけた。なお、この男は2001年頃のテレビ番組『あの人は今!?』で取材を受けた際、「今はメジャーリーグに興味が移った」という旨の発言をしている。2007年4月5日(木)の対横浜戦におけるRCCインターネットラジオ内で、解説の安仁屋宗八は広島市民球場開設50年の想い出を聞かれ一番初めにこの事件のことを口にした。また後にこのクモ男と居酒屋で飲んでいたことも語った。

なお、2009年5月16日の対巨人8回戦(マツダスタジアム)でも、作務衣姿の男が5回裏終了後のグラウンド整備中に三塁側ベンチ横のバックネットによじ上る事件が起きた。男は5mほど登って観客に手を振ったあと球場係員に注意されて自席に戻ったため不問とされた。試合にも影響はなかったが、スポーツ紙はこれを「19年ぶりにクモ男が出現」と報じた[17][18]

放火事件

1998年5月27日開催の対横浜戦(広島市民球場)試合終了後、広島が敗戦したことに怒り、広島のファンが右翼席のごみに放火した。火はすぐに消し止められ、けが人はなかった。

2001年の順位

1998年から2009年まで12年連続Bクラスだが、2001年は勝率では3位ながら、順位では4位となった。これはセ・リーグの順位決定方式が従来の「勝率優先」から「勝利数優先」となった為で、広島はシーズンを勝率3位の68勝65敗7分(.511)で終えたが、横浜の69勝67敗4分(.507)に勝利数で下回り、4位になってしまった。シーズン中は試合消化の早いチームが上位になりやすく、また引き分けの価値が負けに等しくなるなど不評で、翌年からの従来通り「勝率優先」に戻された。

水道管破裂事件

2007年4月12日開催の対巨人戦(広島市民球場)2回表の巨人の攻撃中、突然3塁ベンチの水道管が破裂し、10分間試合が中断した。巨人の門倉健投手が最も近くにいたが、少し濡れた程度だったらしい。

スパイダーマン事件

2005年7月9日開催の対巨人11回戦(広島市民球場)試合終了後、広島が勝利したことに嬉しさのあまりか、広島ファンのスパイダーマンがグラウンド内に乱入したが、すぐにグラウンド外につまみ出された。試合は、広島が9-8で巨人にサヨナラ勝ちした。

社会人野球大会出場

カープ2軍チームは2002年から社会人野球の公認大会であるJABA広島大会(毎年5月)にエントリーするようになった。これまで社会人野球の試合にプロチームが出場することは規制の問題から実現できなかったが、近年のプロ・アマ交流が盛んになったこと、特に社会人チームとプロ2軍の練習(交流)試合も盛んに行われるようになったことから、日本野球連盟・中国地区連盟は広島大会に限定してカープ2軍チームの出場を許可し、社会人野球公式戦の舞台で社会人チームとの対戦が実現した。

戦績一覧
2002年 1回戦敗退(2-3 三菱三原硬式野球クラブ
2003年 優勝(決勝戦:4-0 三菱重工広島)これは全国の社会人野球の大会でプロチームの初めての優勝だった
2004年 優勝(決勝戦:4-3 三菱自動車水島=現・倉敷オーシャンズ
2005年 準決勝敗退(準決勝:4-6 デュプロ
2006年 予選リーグ敗退(7-0 常石鉄工、1-4 JFE西日本 予選Bグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
2007年 予選リーグ敗退(8-1 ツネイシホールディングス野球クラブ、2-3 伯和ビクトリーズ 予選Aグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
2008年 優勝(決勝戦:8-1 三菱重工広島
2009年 優勝(決勝戦:7-6 三菱重工広島

ベースボールドッグ

ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーミッキーが務めた。日本球界初の試み。3回裏と5回裏終了後に登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日ヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では背番号111のカープのユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(数枚限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。

あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったものの[19]ミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日西武戦)に登場した。

この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗したベースボール・モンキーとしてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。

2006年7月21日神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなし、多くのプロ野球ファンを魅了した。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。

2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。

始球式

本拠地での開幕試合は広島市長が始球式を行うこともあり、有名人の起用があまり無く、2004年まではほとんどは抽選で選ばれた子供たちなどの一般者が投げることが多かったが、2005年から主にカープファンの有名人、番宣絡みでの有名人起用を増やしてきた。

過去の有名人の始球式
2004年
  • 奥田民生2004年8月20日対巨人戦 打者・仁志敏久。082(広島市の市外局番)の背番号が入ったユニフォームの姿で投球。同年10月30日に行われる『奥田民生ひとり股旅スペシャル』の告知を兼ねて)
2005年
2006年
※実際は田中のみ投球
2007年
※例年地元開幕戦は市長が投げるのが恒例だったが、この年のみ異なった
2008年
『少林少女』ラクロスチーム選抜の4人(原田佳奈乙黒えり・いとう麻見・千代谷美穂)も登場
2009年
ピッチャーはEBIが担当し、ファースト・阿部義晴、セカンド・手島いさむ、サード・奥田民生、ショート・川西幸一のシフトとして参加
捕手として中尾明慶も登場
  • 1999年度には球団設立50年として過去のカープOB、当時の現役選手が連日広島市民球場で始球式を行った。
月日対戦相手氏名備考
4月6日阪 神白石勝巳※1
4月7日阪 神長谷川良平
4月8日阪 神長谷部稔
4月9日ヤクルト渡辺信義
4月11日ヤクルト松山昇※2
4月20日巨 人川本徳三
4月21日巨 人備前喜夫
4月23日中 日原田信吉
4月24日中 日緋本祥男
4月25日中 日平山智
5月8日中 日古葉竹識
5月9日中 日鵜狩道夫
5月11日巨 人山本一義
5月12日巨 人安仁屋宗八
5月28日横 浜衣笠祥雄
5月29日横 浜大石弥太郎
5月30日横 浜三村敏之
6月11日ヤクルト河合昭時
6月12日ヤクルト高橋里志
6月13日ヤクルト久保俊巳
6月15日阪 神水沼四郎
6月16日阪 神深沢修一
6月25日巨 人木下富雄
6月27日巨 人山本浩二※3
7月6日横 浜北別府学※4
7月7日横 浜小林聖始
7月8日横 浜今井譲二
7月30日巨 人金石昭人
7月31日巨 人川口和久
8月1日巨 人高橋慶彦
8月4日横 浜渡辺弘基
8月5日横 浜宮本幸信
8月13日中 日及川美喜男
8月14日中 日高木宣宏
8月15日中 日福島久晃
8月19日ヤクルト新美敏※5
8月25日阪 神小川達明
8月27日巨 人高橋直樹
8月28日巨 人定岡徹久
8月29日巨 人中利夫
9月4日中 日野村謙二郎
9月5日中 日江藤智
9月14日ヤクルト前田智徳
9月15日ヤクルト浅井樹
9月25日横 浜金本知憲
9月26日横 浜福地寿樹
9月28日阪 神玉木朋孝
9月29日阪 神木村拓也
9月30日阪 神嶋重宣
10月1日阪 神江夏豊※6
10月3日ヤクルト朝山東洋
10月4日ヤクルト野々垣武志
10月5日横 浜新井貴浩
10月6日横 浜東出輝裕
10月11日巨 人緒方孝市

※1 実際の始球式は秋葉忠利広島市長が行ったためVTRで登場。
※2 前日が雨天中止のため長持栄吉と務める。
※3 前日が雨天中止のため金城基泰と務める。
※4 来日したゲイル・ホプキンスと務める。
※5 前日が雨天中止のため杉本正志と務める。
※6 8月16日が雨天中止となったため。

応援の先駆者

鳴り物応援」および「チャンステーマ」も参照

広島は、現在のプロ野球の応援スタイルにつながる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。

  • トランペット応援・選手別応援歌
    • 騒がしい応援スタイルは、一高三高定期戦など、戦前から学生野球やアマチュア野球ではあった[20]。プロ野球でも戦前チームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られた[21]が、戦後は手拍子や野次を中心にした応援が主流で、プロ野球の応援はずっと騒がしくはなかった[22]。1950年代にテレビ放送が始まると都市対抗野球が人気が出て応援が騒がしくなったが、プロ野球の応援が徐々に変化していったのは、カープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したのが大きなきっかけ[23]。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲(通称"コージコール")を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている。最初の1コーラス目は選手別応援歌を歌い、続く2コーラス目以降はトランペット演奏に合わせて選手名をコールする。プロ野球の応援が騒がしくなり、お客が球技を観るより自分たちでパフォーマンスをやるようになったのは"コージコール"からで、騒がしい応援スタイルはこれ以降プロ野球に波及した[24]。 
  • ジェット風船
    • 1978年、カープの関西地区の私設応援団『近畿カープ後援会』のメンバーが、甲子園球場でジェット風船を飛ばしたのが起源という説[25][26][27][28]1984年甲子園を中心に関西地区で活動するカープ応援団「大阪河内楠公会」のメンバーが紙吹雪に代わるものとして、大阪松屋町の玩具問屋で購入した風船を飛ばしたのが起源とする説がある。現在はカープだけでなく、多くのチームファンが風船飛ばしを行っている。
  • スクワット応援
    • 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1993年のオープン戦から地元の高校生(基町高校(小中村 務 等))のグループが遊びで応援していたのが徐々に広まっていった。最初はこの高校生のグループがやり始めると周りの数組が真似をしていただけだったが、数試合後には初回から誰かしらが始めるようになり、全体に広まった。始めのうちはこの応援は立ったり座ったりするのが危険だという事で警備員に止められる事もあった。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(ズームイン!!朝!の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。
    • 高木豊が数えたところ、1試合のスクワット回数は約700回(「伊集院光 深夜の馬鹿力」豆知識予備校より)。

1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。現在でも高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることがある。この様子を見ていたスポーツ用品メーカーの社員がプロ野球チームのペットマークが描かれたシールをチームカラーのメガホンに貼って球場で売ったところ、飛ぶように売れたという。

ホームで9回裏には、「燃える赤ヘルぼくらのカープ」が流れる。

社会貢献

広島球団は新球場開場を記念して、今年度より球場来場者100万人達成ごとに社会福祉団体に対し、福祉車両(マツダ車)を贈呈するフィランソピー活動を展開している。

また国庫に対して公益寄付を行ったことで、2009年9月30日付で日本政府より広島球団に対して褒状が授けられている(官報 平成21年10月7日付告示)。

応援歌

  • 『勝て勝てカープ』(歌・塩見大治郎)
  • それ行けカープ 〜若き鯉たち〜』(歌・塩見大治郎、南一誠、鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND)
  • 『燃える赤ヘルぼくらのカープ』(歌・事崎正司=現・加納ひろし
  • 『痛快!赤ヘル音頭』(歌・柏村武昭
  • 『ゴーゴーカープ』(歌・富永一朗
  • 『Red~僕らの広島カープ~』(歌・石田匠)
  • 『わしを市民球場に連れてって。』(歌・堂珍嘉邦)
  • 『勝利を我らに!~Let's win!~』(歌・鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND)

主なキャンプ地

キャッチフレーズ

  • 1953年 闘志なき者は去れ
  • 1973年 スピードとスリルある野球
  • 1974年 HOTTER BASEBALL!
  • 1975年 100%の努力(ルーツ)/ハッスルプレーでスリルあるエキサイトしたゲームを(古葉)
  • 1976年 CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST
  • 1977年 LET'S GO TO CHAMPIONSHIP
  • 1978年 ALL MEN DASH!
  • 1979年 LET'S SPARK!
  • 1980年 3S BASEBALL (SUSPENCE SPEED START)
  • 1981年 3A BASEBALL (ACTIVE ACTION APPEAL)
  • 1982年 BIG JUMP HOT BASEBALL
  • 1983年 START FROM ZERO
  • 1984年 BLAZING BASEBALL
  • 1985年 CHALLENGE TO FRESH BASEBALL
  • 1986年 CONSISTENT CONCENTRATION (一貫した集中力)
  • 1987年 3C (COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION)
  • 1988年 RETURN TO FUNDAMENTALS (基本に帰れ)
  • 1989年 WINNING SMILE
  • 1990年 STRIKING AVNEW (新たなる爆発)
  • 1991年 WILL TO VICTORY
  • 1992年 VALUE OF VICTORY
  • 1993年 RED CHARGE
  • 1994年 TOTAL BASEBALL
  • 1995年 TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER
  • 1996年 TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP
  • 1997年 TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO (夢の実現)
  • 1998年 TENGA CONFIANZA (己を信じて)
  • 1999年 YES, WE CAN
  • 2000年 START FROM ZERO ZERO
  • 2001年 レッドアタック「攻めろ!!」
  • 2002年 レッドパワー「燃えろ!!」
  • 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」
  • 2004年 WILL TO VICTORY
  • 2005年 REBORN TO WIN「赤ヘル再生」
  • 2006年・2007年 ALL-IN
  • 2008年 ALL-IN激
  • 2009年 ALL-IN烈
  • 2010年 We're Gonna Win 俺たちは勝つ

カープ応援番組

カープを取り扱う雑誌

脚注

  1. ^ a b 2005年現在で株主数は9人で、マツダの関連会社や松田家親族で固められている。(出典:[1][2]
  2. ^ a b c d 中国新聞 (2010-01-01). "2010年新春トップインタビュー". 2010-01-06 閲覧。
  3. ^ この一件は、2001年5月1日放送のNHKプロジェクトX〜挑戦者たち〜」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。
  4. ^ 定本「プロ野球40年」121頁(報知新聞社・1976年)参照のこと。
  5. ^ ただし、具体的な処罰内容は決められておらず、「3割を切ったら自動的に解散と決めていた」という記述は誤りである。
  6. ^ この年は松竹ロビンスが最下位で、勝率は.288だった。
  7. ^ 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』(筑摩書房、2001年)P208
  8. ^ これは、現在5月の連休に行われているひろしまフラワーフェスティバルの発端となっている。
  9. ^ この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。
  10. ^ この当時は引き分け再試合制で、引き分け試合は事実上ノーゲームと同じ扱い(ただし記録は残る)だった。そのため、勝数の差=ゲーム差であった。
  11. ^ この年、日本プロ野球で初の6年連続シーズン3桁失策を犯す。
  12. ^ 広島が来季監督を野村謙二郎氏に要請 日刊スポーツ 2009年10月4日配信、同日確認
  13. ^ ただしチーム名としてCarpを使用する場合には最後にSを付けるのが正しく「カープス」は間違いではない。
  14. ^ セ・リーグではスポンサー広告の掲示がホーム用ユニフォームにしか認められていないため。
  15. ^ 出典:『ベースボールマガジン』2010年3月号、ベースボール・マガジン社
  16. ^ 横浜・ダイエーはFA残留は認めなかった一方でFA選手の獲得は行っていた。ダイエーでは村松有人が移籍を前提としたFA宣言をした際は、例外的にFA残留を認める姿勢で交渉したが、球団への不信感もあり翻意できなかった。ソフトバンクの経営となってからは姿勢を明らかにしていないが、残留を前提としたFA宣言選手はまだいない。横浜は三浦大輔が初のFA残留選手となった。
  17. ^ 19年ぶり!? 広島の巨人戦に「クモ男」日刊スポーツ 2009年5月17日付)
  18. ^ 19年ぶりクモ男出現!バックネットに登り手を振るスポーツニッポン 2009年5月17日付)
  19. ^ ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。
  20. ^ 丸谷才一と16人の東京ジャーナリズム大批判、丸谷才一他著、青土社、1989年、126-128頁
  21. ^ 大阪タイガース阪急軍ブラスバンド演奏は数々の文献に出ている。
  22. ^ 丸谷才一と16人の東京ジャーナリズム大批判、丸谷才一他著、青土社、1989年、126-128頁
  23. ^ トランペット応援の発祥がカープにあるというのは「プロ野球ヤジ講座」〔おかひろみ編・自由国民社〕、「巨人がプロ野球をダメにした」〔海老沢泰久著・講談社〕にも記述されている。
  24. ^ 丸谷才一と16人の東京ジャーナリズム大批判、丸谷才一他著、青土社、1989年、126-128頁
  25. ^ 中国新聞、2008年9月21日、30面
  26. ^ 中国新聞(みんなのカープ)
  27. ^ 神戸新聞Web News
  28. ^ MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


広島東洋カープ

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